2016/10/15

まっさらな10月。

空が高くなっていて、気がつけば10月なかばで、
あれだけ狂ったように暑かった夏は、今年は名残惜しげに何度も火照りを残しながら、それでももうすっかり去ってしまった。
そして本当にいつの間にか、ぎんなんが匂っていて、すとんと秋が来た。

なんとなく、2年前の10月を思い出していた。

ソウルでの1人暮らしをはじめて半年あまり、
そして、大学の研究室に間借りした小さな民間団体の「1人事務局」で働き始めて3カ月あまりの頃。

10月はじめの3連休は、自分でびっくりするくらい「することがなかった」。

休みに急に連絡して遊ぶような友達もいなかった。
休みの日を返上するほど忙しい仕事もまったくなかった。
それまで感じたことのなかった類いの、「しがらみのなさ」の晴れ晴れとした自由さとさみしさを噛みしめていた。
むだに天気が良かったことをよく覚えてる。



映画にでも行けばいいし、明洞や弘大の方にショッピングにでも行けばいいし、ふだん全然行かない美術館とかにでも行けばいいのに、その気が起きなかった。

そして何をしたかというと、

何を血迷ったのか、

家の近所の美容皮膚科で、レーザートーニングをした。爆。


なんだったのだろう…あのときのあの心理は。
「こんなに人に会わないという時期はないかもしれない、そんなときこそできることをやっちゃおう」
という勢いでだったのか。とにかく、魔が差したとしか思えない。
そう思い立つと、最寄りの駅の周りにいくらでも「美容皮膚管理」の施設を見つけられるのがこわいところだ。

結果的にどうだったかというと、連休初日に施術して、残り2日間はまるっきり部屋に籠もらねばならない顔になった。(レーザーで焼いた小さいシミの痕が無数に散らばる顔)
その後2カ月くらいかけてケアに励んで多少きれいになったが、いま、どれだけ効果があったかと見返すとあまり自信がない。もしかしたら、そうとうなムダだったかもしれない。でも特に後悔していない。

あの頃、向き合っていたのは自分の顔ばかりだったのだという、馬鹿馬鹿しくも消し去れない日々の証な気がする。

あれから2年。たった2年なのに、ずいぶんと自分の環境は変わった。
鳥がせっせといろいろな物を集めて巣をつくるように、私も自分の居心地のよい場づくりのために本能的に動いていたのかもしれない。私にとって必要な「物」は人とのつながりだった。たとえ、めんどくさかったり嫌な思いをすることが増えても、人との関係を作らずにはいられないタチらしい。
暮らす、というのはそういうことなのかもしれない。がらんとしていた部屋に一つずつ家具が増えるのと同じく。よくもわるくも。


だからこそ、2014年のすっからかんの秋を、ときどき大切に思い出す。
孤独ともいえないささやかな「コドク」を噛みしめていた、まっさらで空が青かった秋の日を。


2016/08/16

8月15日とハンメ(ばあちゃん)。

終戦記念日、いや敗戦日、光復節(解放記念日)…と、
日本と朝鮮半島の間で、毎年なにかしらの厳粛さと緊張感を持たざるを得ない、8.15。

久々に、この時期に東京の実家にいる。

久々に一人で来た実家は特に何も変わってなかったけれど、ずいぶんスペースが余るようになっていた。長いこと6人で住んでいて狭かったのに、いまは両親2人だけが住んでいる家。

この日は朝から雲がどんより重く、湿度が高かった。台風が近いらしい。

11時、車でK市の端にある老人保健施設に両親と向かった。
痴呆の症状が進み施設にいるハンメ(おばあちゃん)の様子を見に。

施設の入り口に着くまで、私は老人ホームも養老院も介護施設もよく区別がついていなかったことに気が付いた。自分の家族のことなのに、新聞記事の2行ほどのこともわかっていない。

数日前、ハンメは脱出を試みて一人でエレベーターに乗ったらしい。受付の看護師さんは「ちょっと目を離したすきに…ごめんなさいね」と苦笑していた。歳に比べ足腰が健康すぎるハンメ、さすがだ。

訪ねてみると、4人部屋のカーテンで仕切られたベッドで、ハンメはきれいに横たわってすやすや眠っていた。四角い顔は思ったよりしっかりしてツヤもよい。ただ胸の上で組んだ両腕は老人のそれで、骨ばかりだった。
腕に軽く触れるとふっと目を覚まし、しばらく私の顔を見つめ、「みす?」と呼んだ。

あ、孫のことはわかってるんだ、よかった。と思った。
「いつ来たの」「まだあっちに住んでるのかい」というので、普段は韓国にいることもちゃんとわかっているらしかった。
よく眠っていたねというと、「片付けしたら疲れちゃった」という。引き出しケースに入っていた衣類はきれいに畳まれカバンの中に移されていた。「家に帰る準備をしてた」という。

お昼なので一緒に部屋を出た。食事スペースには30人ほどのご老人が静かに自分の席に座ってじっと待っていた。自分で動けて、自分で歩けて、入れ歯も1本もないハンメからしたら、なぜ自分がここにいなきゃならないのかそりゃわかんないだろうな、と思った。

あまり長く一緒にいると帰る帰ると言い出すので、母と私は早々に退散することにした。
「良かったわねえ、かわいいお孫さんが来て」と看護師さんがいうので、自分がまるで小さな子どもになったような気がした。そして私が本当に小さかった頃は、ハンメはまだ40代後半だったのだと思いだした。

ハンメが痴呆と気付くちょっと前、だから今から5,6年前のある日、二人で荻窪でご飯を食べたことがある。
そのとき、ハンメは突然終戦前後の話をし始めたのだった。兄を頼りに朝鮮から日本に渡ってきたこと。20歳近く年上の人と結婚しなければならなかったこと。ハルベ(じいちゃん)は結婚してすぐ亡くなり、ヤミ米を売って生活したこと。貧しかった、という言葉は絶対に使わなかった。昔はヤンバン(両班)で金持ちだったとか、日本では周りの誰も食べたことのないバナナが家にはあったとか。
生涯女手一つで家庭を支えたプライドが、ハンメの軸だったのかもしれない。痴呆がおカネへの執着という形で表れ、一緒に暮らした実の娘である私の母や父は苦しい思いをした。

20代からほぼ実家を出てしまった私は、家族に対しては自分が困ったときに頼るばかりで何もしなかったという申し訳なさばかりが残る。
ハンメがとりあえず施設に入れたこと、それで両親が気持ち的には少しはラクになったことに、ただただほっとしている。
それもずいぶん薄情なことなのかもしれない。

2年前くらいに、私が韓国にいる間にハンメも遊びにおいでよ、と言ってみたら、
「行ってもいいけど、そんなに行きたくもない」とあっさり断られた。
故郷に行きたくない?と聞いても「別に…」と沢尻エリカ並の返事だった。
ハンメのなかで韓国とは、故郷とは、どういうものとして位置付けられているのだろう。
祖父母たち1世が故郷に帰りたいだろう、と思うのは、むしろ後世のロマンなのかもしれない。
いや、「別に帰りたくもない」という言葉の奥底にある心理はまったく別の複雑なものなのかもしれない。

***

やっぱり日本も韓国も老人福祉問題が深刻よねえ、などと、一般時事問題のようにしゃべりながら、こぎれいな施設を後にしつつ、
「もう家に帰る」と荷造りをしていたハンメの姿がちらつき、目の奥がしきりに痛くなって、下を向いてスニーカーの靴紐を結んだ。

グレーの空に少し晴れ間が見え、セミの鳴き声が耳に痛く刺さった。

2016/07/11

夏の夕暮れ、ビール、旅。

猛暑注意報が流れるほど暑い週末。

ちょっと前に大雨が来たり、台風の噂もあって、あら今年は梅雨らしい梅雨が来るなあと思ってたけど、また連日猛暑。

私は夏が大好きなので、暑いのはそれほど苦じゃない。
けっこう年を取ってきたのに、相変わらず夏好きなのは、まだ体力があるということでありがたいことと思いたい。

だけどこの7月は、私の好きな典型的な夏のイメージ=青のペンキをぶちまけたような空、まっ白な入道雲、カルピス、みたいな=にはまだ遠く、じとっと重たい暑さだ。からりと晴れた青空が見えないのは、大気汚染のせいかもしれぬ。

夏の一番切ない時間帯は、ほの明るい夕方だと思う。


古びた団地の両マンションに切り取られたすきまに夕暮れを見たら、
なんだか胸苦しくて、無闇に人恋しくなる。

こういうときに、外でビールを飲みたいのですよ。しんみりと。
ほんとに。

と、思っていたら、外に出かけた師匠から珍しくコールが。
「いま家の近くで○○と飲んでるんだけど、迎えにきてほしい状況になった」
と、ナメたことを抜かす。でも、外でビール飲めるかも!という思いで、速攻駆けつける。

団地の目の前の道路を挟んで、飲み屋街が並んでいる。
夏の夜は連日、外がにぎやか。


行って見たらば師匠は夜風に吹かれてウトウトしている。
相手にしてくれていた友人の○○さんと、ビールと焼酎で乾杯しながら、旅行の話などをする。

夜の熱気、がやがやした飲み屋街の騒音、時折とおりぬける風。
そんな中、プラスチックのテーブルでビールを傾けていたら、アジアを旅行した20代の頃を思い出した。

ーー若い頃って、ほんとに怖い物知らずでした。ネットもない時代に、1人でバックパック背負っていろんなとこ行って。怖いこともあったけど、事故も無くいまこうしているのがフシギなくらい。でもやっぱり、旅に行って良かったって思います


そんな私の言葉を、相手はどれくらい理解したかわからないけど。

確かにいま、バックパックで一人旅に出る勇気があるか、自信がない。20年前のあの頃よりも、世界は不穏で不安に思える。それは、私が年を取っていろんな情報が耳に入って、保守的になってきたせいなのか、…それとも、本当に世界が非平和の方向に向かっているからなのか。わからない。前者だと思いたい。

ねむねむの師匠を起こして、帰路につく。徒歩5分の旅。
守るべきものー家族ーができると、保身になる。守るべきものができるというのは、強さだけではなく、弱さにもなり得るのだと思った。


はじけるような熱狂の夏は、私にはもう来ないかもしれない。いや、十数年たって忘れたころにやってくるかもしれない。
わけのわからないことを思いながら、ほろ酔いで家に着く。




2016/04/26

ああ、食い違い。

女と男の傾向のちがい、と安易に分けたくはないが。
どうしても、女が関心を寄せる話題と、男が関心を寄せる話題は、大きく分ければ別の枠組みになるらしい。
もちろん女的なネタの盛り上がりに乗れない・乗らない女性もいるし、逆もまたしかりなので、あくまでも個人の傾向の違いではあるが。

まわりくどいけれど、何のことかといえば、私の関心事と師匠の関心事の違い方のことで。
料理につかうこだわりの食材とか、インテリアの鉢植えとか、自然派の化粧品とか、
そういうものに師匠がひとっつも関心がないのと同じくらいに、
私は、師匠がテレビにかじりつくスポーツ観戦全般にひとっっつも興味がない。
(師匠に限らず、いままでのパートナーは大抵スポーツを観るのが大好きだったが、私はどうやっても興味を持てなかった。)

そのへんはもう、お互いの領域の違いを荒らさないという暗黙の了解のつもりだったが、
人というのはやはり、自分が面白がっているものを側にいる人に伝達せずにいられないらしい。

深夜、師匠がいつものようにスポーツチャンネルを回すと、運悪く(運良く?)錦織vsナダルのテニスのオープン決勝戦をやっていた。
大人しく観ていればいいものを、「ナイッスー!」「ア〜 シッ(=ちくしょう)」「アイゴ〜!」と、ひとり大興奮である。深夜1時すぎ。
さらには「いまのはどこが良かったかというと…」と解説をつけてくる。しばらく相づちを打ってみたが、なんせ興味ないので、
「テニスの面白さがちっともわからない私には身に余る解説です。」
と、丁重に申し上げておいた。

すると、一瞬大人しくなるのだがすぐに「あっほら今の絶妙なサーブが…」と言いだし、「…って言ってもあなたは興味ないんだよね。」としゅんとなるので、ちょっと悪いなと思い、「聞くだけ聞きましょう」と応じることにした。

自分の作業をしつつ30%くらい耳に入れ、フンフン、それで?ほお、フンフン。を繰り返していたのだが、
「ファン・インジョンは体力は劣るが持久力はあるんだよ」
という言葉がなぜか耳に入り、
「ふんふん。で、ファン・インジョンはいつ活躍した選手?」
と何気なく聞いてしまった。

すると、師匠の表情になんともびみょーな気まずい色が浮かんだ。

「いや…なんていうのか…ファンというのはイエローのことだ」と。

ファン(黄)
イン(人)
ジョン(種)。


黄色人種の体力の話だったらしい。


スポーツの話は、5%くらいしか聞いていないことがバレバレ。

おかげで、その後はすっかり大人しくなって観戦していました。



それにしても、「イエローのこと」…って。
分かるように伝えようと、とっさに出てきた言葉らしい。


2016/03/21

最近の日々。

同居人である「師匠」の職場は二勤交代制なので、週ごとに朝出勤、午後出勤が変わる。

ちなみに師匠というのは夫のことである。
師匠とは、はじめて彼の写真を見た妹の感想が「ざこば師匠に似てる。」だったことに由来する。「夫」も「亭主」も「旦那」も「ハズバンド」もどれもしっくりこないので、当面この渾名で登場してもらうことにする。

朝出勤の週は5:40に起床して、朝ご飯を食べて、6:10に送り出す。
これは、完全夜型で早起きがめちゃめちゃ苦手な私にとっては、画期的な生活の変化だ。
送り出したあと、食器を洗い、掃除をし(毎日ではないけど)、洗濯をし(毎日ではないけど)、片付けて一息ついてもまだ8時になっていない!なんていい気分!
今まで自分にもっとも縁遠かった「早起きは三文の徳」を実感。

朝の時間はシゴトがはかどるというのは本当だ。
とはいえ、ひとたびパソコンに向かってしまうと、あれもこれも手を付けはじめてしまい、あっという間に午後になる。
一休みしようかな、と時計を見ると4時過ぎで、ちょうどその辺りに早番勤務を終えた師匠がただいまーと帰ってくる。
師匠は家にいる間中ずうーっとテレビを点けるので、テレビと机が同居している部屋での作業はなかなか進まない。つごう、師匠が朝出勤のときは早い日中、午後出勤のときは2時以降〜夜までが在宅ワークタイムになる。

その合間に家事をする。家事にハマると半日キッチンに立ち続けていることもあるけど。
料理は、いままでのところほぼ完全韓国料理だ。
おかずの8,9割が、赤い。
韓国料理のよいところは、作りおきのおかずでほぼ毎食卓をクリアできること(それも家庭の趣向によるだろうが、うちはメインのおかずは特にいらない、というタイプ)。
何種類かのキムチ、何種類かのナムル、スープを、時々気合いを入れてダーッと作り、
後は食卓に出す→食べる→片付ける の繰り返しだ。慣れると、この上なく楽。




料理も、片付けも掃除も好きなシゴトだ。
時間があるかぎり、こまこまと家の事をするのはまったく苦じゃなく、じつは昔からナチュラル系の生活雑誌を見たり、こんな家にしようと妄想するのが大好きだったりもする(全然そうは見えないとよく言われますが)。

新しい暮らしがはじまってはや3ヶ月。
最初は「定期的なシゴトが決まっていない」ことに、妙に焦ったり落ち込んだりしていたこともあったけれど。
このかんの日々が、人生でいちばんゆとりを持てた生活かもしれない、と思う。
いまは在宅ワークがメインなので、時間を自由に調整できるのが本当にありがたい。

4月からまた、いくつか新しいことが始まる予感。いや、予定。
しかしスケジュール帳はまだ空白をたくさん残しておく。
今年は「暮らす」というのをきちんとやっていけるようにしよう。
と、いまのうちに思っとこう。





2016/02/29

田舎で旧正月を。

だいぶ前の話になってしまったけれど、
2月5日から8日まで、旧正月をはじめて「嫁」として田舎で過ごした話。


韓国でヨメになると盆と正月が大変だ、という話は呪いのようにあちこちから聞かされ続けてきた。
元来「女は家」と表す嫁という言葉が気に入らなかったから、「わたしはケッコンはすれどヨメになんぞならん!」と息巻いていた。
しかし韓国においては、私がどんな主義主張を持っていようが、周りは勝手に大変なヨメ像を押しつけてくる。

幼い頃は、在日のわが親族も正月や祭祀には親戚一同集まって法事を行っていた。居間では男性陣は陣取って飲み食いし、女性陣は朝から台所に立って料理に忙しく、一段落すると男性陣とは別の部屋で食事をとる。そこでは主に、夫や理不尽な習慣をディスる女トークが花咲いた。
「一度でいいから、お正月にチジミじゃなくてお刺身が食べたいわ。」
と嘆いていた叔母さんの言葉を今でも覚えている。
物心ついたころに参加した女ばかりの自由なトーク時間を面白いなと思いつつも、私は大人になったら絶対こんな習慣に染まりたくない、とも思っていた。

ところが、四十路を迎えるいま、「こんな習慣」の本場(?)でミョヌリ(嫁)と呼ばれるものになってしまった。

夫となった人の実家は、半島の南端の地域のど田舎にある。
秋夕(チュソク)のとき初めて訪れたが、本当に、見渡すかぎり田んぼと畑と山、という風景のなかに古い実家がポツンと佇んでいる。

実家の玄関をあけるとまず、年季の入った家の黴臭いような懐かしいにおいがする。
テレビとベッドだけがある居間と、台所と、シャワーがついているトイレ。住居空間はそれだけの簡素な平屋だ。そこに、お義母さんが一人で住んでいる。
義兄さん方はまだ来ておらず、正月直前に来るとのこと。で、早く来すぎた私たち、そしてお義母の3人で2日間を過ごすことになる。

盆正月のなにが大変かって、とにかく料理をつくって食べて片付けてまたつくって…が大騒ぎなのだが、
足腰の悪い義母はもうだいぶ前から、長い時間台所に立っていられなくなっていて、祭壇に供える正月料理はほとんど市販の総菜で済ますという。
なので、食材の買い出しも、料理の仕込みも、大量の食器洗いもなく、
私たちは、到着した日から翌日いっぱいまで、
お義母さんの作ったおかずで食事→テレビ観る→寝る→起きて食事(同じおかず)→テレビ観る→食事→寝る… というサイクルでひたすら時間を送ることとなった。
何もしないというのは落ち着かなくて「何か手伝いましょうか」というと「座っとけ」と言われ、
本当にただ座っているしかないという状況。

わいわいがやがや人が集まり、座るヒマもないほどめまぐるしい正月準備、
…とはほど遠い、果てしなく静かな時間がまったりと流れていく。

もしかしたら、ミョヌリの先輩方から「あまーい!」と言われるかもしれないが、
まあ、こういう実家で私はちょっと胸をなで下ろしている。




2016/01/19

どこに住むか、の問題。

私の住んでいるS洞(洞は区の下の行政区域)は、不思議なかたちをしている。

六角形の空間、その名も「ダイアモンド広場」というただの空間を中心に、
六つの辺に沿ってぐるりと商店街がならび、それをさらに取り囲むように住宅団地が放射状に広がっている。
いかにも人工的な団地だけれど、住んでみて団地まわりの商店街のにぎわい、人出の多さに驚いた。
特に私の住むH団地に隣接している商店街は、「必要なものが、必要以上にある」といった感じだ。
3つのスーパーをはじめ、コンビ二、イトーヨーカ堂くらいの規模の百貨店、食堂、飲み屋、屋台、道ばたで野菜や乾物を売っている露店、ダイソー、洋服屋、アウトドアショップ、靴屋、コスメショップ、貴金属店、病院は総合病院から美容皮膚科まで数件…etc。
これらがほぼ、家から徒歩5分圏内にある(ちなみにスポーツジムでも通ってみようかと調べたら、徒歩圏内に4店舗あった)。

新しい住まいを決めるとき、私はできれば団地だけは避けたい、と思っていた。
同じ形の20〜30階建てのアパート(日本でいうところのマンション)が、同じように並んでいる韓国の団地の風景は、その地元とか町とかの空気にまったく関係なく突然生えた異物のように見える。
どの町にも同じように建っているアパート団地群は、少しも魅力的にうつらなかった。
それなのに。

* * * *

去年の秋、二人で一緒に住もうという話になったものの、引っ越し話は一向に進まず私はちょっとイラついていた。
ソウルを離れ、連れ合いの住むA市に移ることは了承していたけれど、A市のどこに目処をつければよいのか見当がつかない。
ある日しびれを切らせて「いまから下見にいく!」と、連れ合いの住んでいる町に押しかけた。
相手はのほほんと待ち合わせ場所に来て、何も聞かずS洞に私を連れていった。

私が良さそうな不動産屋をネットで調べてピックアップしておいたにも関わらず、お構いなしに手近な不動産屋に入る。
「○○くらいの予算、チョンセ(※前払い一括保証金の家賃制度。「どたばた家探し」参照)で、H団地がいい。」と、わたしゃ聞いてないよ!という条件を連れ合いはしれっと並べ、不動産屋の女主人は「最近チョンセの物件はなかなか無いのよね〜」と言いながら、H団地のうちの2、3件を出してくれた。
そして、そのなかの南向きの部屋を勧められ、
連れ合いは内見もせずに「どう、ここにするか?」と笑顔で尋ねるのだった。
き、決められません!!そんな、一杯飲み屋を選ぶようなノリで!

そういう、「住まいの決め方」に関するギャップに私はへこみ、連れ合いに対して無闇な反抗に出た。
「団地はぜったい嫌なの!」
「なんで?団地は便利だよ。出前頼むときアパートの屋号言うだけで良いんだから。」(そこかよ)
「夜、ひと気がなくて怖いじゃん!」
「24時間警備の人たちがいるよ。最近は一戸建てのほうが危ないんだよ」
「でも15階とか20階とかは人間の住む高さじゃないよ!
 エレベーター止まったらどうすんの!人は土から離れて生きられないのよお!」
地震を体験したこともなく、ラピュタを見たこともない相手には、通じなかった。

* * * *

そんなこんなで、軽くすったもんだしたものの、
もろもろを経て(その顛末は省略)、結局、S洞のH団地に収まってしまった。
住めば都。いや、都から離れた身としてはそうは言えないけど。
とにかく全てが手の届く範囲にあるこの地域での生活は、
手放しがたい「便利さ」を得てしまった。
いまのところ、そう悪くはないけれど、
便利さは、動きとか感覚を鈍らせる。ような気がする。

ともかく、新しい環境で新しくはじめる生活だから、
これからこの地域の魅力を探しだしてみようと思う。
六角形のまわりをぐるぐる歩いて、地元探索に精を出そう。
もうちょっと、あったかくなったら。



2016/01/06

招かざる訪問者。

引っ越して3週間たった今日の夕方の出来事。

買い物から帰ってきて、荷物を置いた直後にドンドンドンと玄関ドアを叩く音。
誰ですか?とドア越しに聞くと、
「○○確認ですよー」とおばちゃんの声がした。

確認ですよって言われても全然イミがわからない。
恐る恐るドアを開けると、まるで町内会会長のようなアジュモニ(おばちゃん)が何やら書類を持って、ドアの隙間から玄関にのしのし入ってきた。
「最近引っ越して来たのよね?ハイここ(と書類を差し)、世帯主の名前…あってる?アナタの名前入ってないけど…ああそう、新婚なのね」
書類の件名には「転入確認書/通帳確認書」と書いてあった…ような気がしたが、これ何ですか?と聞く前に、アジュモニは無遠慮に部屋を眺めまわし、
「あらー、内装やったのねー、キレイにしてるわねえ。ちょっといい(わよね)?」
と、ずかずか入ってくるではないか。
居間をぐるりと見て「あらあ、広く感じるわねえ」「本が好きなのねえ(=本棚しかないわねえ)」と。「あ…まだモノがあんまりないもんで」と、ついこっちがヒクツに応答してしまう。

「あらあら、これなあに?!すてきねえ!」と目を付けられたのは、格子の形に開くブラインドで、「どこで買ったの?いくらだった?」とたたみかけてくる。
さすがにこの辺で(やっと)我に返って「で、ご用件は?」と言いかけたタイミングで、アジュモニは転入確認の書類のサインを求めてきた。

ところが、書類の確認もそこそこに。
「旦那は?まだ帰ってきてないの?遅いわねえ」
「あなたいくつ?あらそんなお年なの?若く見えるわ。…なんで結婚がそんなに遅かったの」
「子どもは?いないのね?まあ早く作らなきゃね」
「旦那の出身地はどこ?あなたは?」
「働いているの?週何日?何時出勤?」
久しぶりに見知らぬ人の厚顔無恥力に圧倒され、腹が立つより呆気にとられ、思わず一問一答してしまう私。

そんでもって。
「明日は何するの?」と幼稚園の友だちのような無邪気な質問をされた後、
「教会には通ってる?」と聞かれて、ようやく再びハッと我に返った。
「いいえ」と答えたら、まるで心外というような表情で「なんで?」と聞かれたので、
「わたし仏教徒ですから」とまじめな顔で答えておいた。
「そう…私もね昔は違ったんだけど、教会でイエス様にお祈りしたら病気が治ったのよ、それ以来イエス様を信じるのよね。で、明日1時間くらい時間あったら教会に…」
「いや、無理っす」
「どうして」
「私にはお釈迦様がいますから。」

また何か言い出しそうなアジュモニをやっと玄関先まで追いやった。
出る間際にアジュモニが残した言葉は、(開けっ放しだった)トイレを見て「あらここも改築したのね…いくらだった?」
「知りません、覚えてません」

玄関を出ながらアジュモニは、
「イエス様を信じなさい〜」
と言い放って、去っていった。

いやあ。
正月+週末は家でダレていた自分に、このアジュモニの登場は
青唐辛子並みの刺激でした。
油断ならぬなあ、と思った新居生活。

というわけで、この機に「引っ越し顛末記」をちょっとずつ思い出しながら書いてみようと思う。

つづく。(つづかないかもしれない)




2015/12/31

1年を振り返ってみる。

結構昔から自分の恒例行事なので、大晦日に1年を振り返ってみる。だれでもやってることだけど。

1月、ビッグイシュー日本の知人をはじめとする研究会の韓国訪問のコーディネート&同行通訳。やりがいを感じて、今後こういうことをやりたいなあと漠然と思う。そして今後につながる出会いのあった月。

2月、日韓の大学の教授陣のフォーラムのため福岡、長崎へ。そういえばソウル一人暮らし1周年。

3月、誕生日。韓国の歳ではずっと40だと思ってたのに、考えてみれば39歳になったのであった。へんなの。上海での「東アジア地球市民村」イベントに参加→雲南省の大理スタディーツアー。大理すてき!

4月、日韓ミュージカル「A Common Beat」の話が舞い込んでくる。会議の通訳を引き受けたつもりが、3回目以降の会議では「共同代表」になっていた…。

5月、ミュージカルの体験会(参加者募集)スタート。初めての合宿。日本からコアプラスやキタシバのメンバーが来て、またソウルツアーの同行をさせてもらった。

6月、東アジアリーダーシッププログラム(日韓若手宗教者のワークショップ)の日本ツアーで、埼玉県小川町フィールドワーク。あ、そうそう、やっと国民健康保険に加入。

7月、コモンビート練習。日韓台そしてアジア各地の学生達のワークショップ in うちの大学。これが最後のシゴトとなる。

8月、日韓クルーズ「Peace & Green Boat」参加、楽しかった。帰ってくるなりミュージカルの最後の日韓合同合宿。

9月、ミュージカル A Common Beat ソウル公演!!秋夕(チュソク=旧盆)のお休みに初めて彼の田舎に行く。

10月、A Common Beat 福岡公演!感無量。いっぱい泣いた。その後、彼が来日、親に挨拶。

11月、世界人権宣言大阪連絡会議と多民族共生人権教育センターの来韓、同行通訳。その後、去年ソウルでの「国際社会経済フォーラム」で会った川崎市の職員さんがたが来韓し、飲む(飲んでばっか)。

12月、日本で「東アジア地球市民村」のスタディツアーで東京、長野、山梨、綾部。その後石巻でのコモンビートミュージカル鑑賞。韓国に帰ってきて、12月9日二人で住む家契約、11日に引っ越し、新生活はじまり。遠くから友だちが会いに来てくれる。我が家族が日本から訪韓、ほぼ初めて4日間家族と旅行をした。そして、28日に、法的に結婚。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
2015年の1月に書いていた日記。
「この1年しかないって思おう。
 この1年で、すべてやる。
 シゴトを軌道に乗せるのも
 韓国生活も
 私が私としてできることをみつけるのも
 一人で自由にいられるのも。
 やろうと思ったことを、必ずやろう。
 がむしゃらになれるのも、この1年しかない」

とかいって。
できなかったことも、いっぱいあるけれど。^^;;

いつもの事ながら、今後のことをもやもや模索している私であるけれど、きっと一生もやもやするのが私ということで、今年は気分よく締めることにしよう。

2016年、平和で喜びがあふれる年になりますように…


 今年の最後に、心につきささった、石巻の風景。




2015/11/25

そのひとことを飲み込んで。

ずっと思っていたことを、ちょっと書いてみる。

銀行の窓口で、タクシーで、何かを問い合わせたり申し込んだりする電話口で、
最初の一言を発するときの緊張が、いまでも苦手だ。

タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げると、最初のほんの少しの会話で気づく人はこう言う。
「ハングッサラム アニシネヨ(お客さん、韓国人じゃないね)」
そのとき私に元気があれば、韓国人だけど日本出身の在日同胞です、と言うし、元気じゃなかったり面倒であれば日本から来ました、とだけ言う。
日本から来たという言葉でなぜか大抵、運転手さんは「やっぱり当たった」とばかりに満足げに、日本に関する自分の関心事を話したりする。
私は、『ああやっぱりバレた』と、小さくがっかりする。
この「バレた」と「がっかり」という感情は、どこからくるものか。何故、そんな風に感じてしまうのか。

韓国生活、トータルで2年7ヶ月たった。思い返せば、来たばかりの頃はいまよりもずっと、韓国語を話すのがぎこちなかった。
銀行で初めて口座を作るとき、住民登録証でも外国人登録証でもない「居所証明」を持って要件を伝える私の前で、係員は隣りの係員に「外国人なんだけど、担当者呼んで」と言った。

そのとき、私はキレた。
自分でも止めようのない感情が膨れあがって、押さえられなかった。

以来、外国人と扱われること、日本人と思われることに対して過剰に反応してしまうようになった。携帯電話の加入のとき、郵便局の窓口で、店で物を買うとき、何気ない会話で。
友人に「あなたがそういう反応を示すとき、顔がとてもこわばってる」と諭され、ハッとしたこともある。無意識に肩に力が入っていたのだ。
2年くらい経ち、さすがにもうそんなに反応しないな、と思っていた。が、忘れた頃にこの『アナタ外国人/日本人ダヨネ爆弾』は炸裂する。そして少しずつ心を傷つけられる。
「いい年して今さらもう傷つくな!」と一方の自分が突っ込むときもあるけれど、しばらく心の奥でいじいじしているのだ。

なんでなんだろう。と素朴に考え直してみる。私は「韓国人」として認められたいのか?

「イルボンサラム アニラニカヨ! ハングッサラムイエヨ!」
(日本人じゃないってば!韓国人なんですよ!)

何度も口にしたこの言葉は、実際叫んだりはしないけど、いつも絶叫のように心を行き来する。
それから、

「日本にいても外国人、韓国にいても外国人……」

この哀愁に満ちた節も、何かにつけて心寒く流れる。

でも。
そもそも韓国人なのか、私は。東京で生まれたときは朝鮮籍で、韓国国籍は18歳から始まった。
韓国に住むことになる、というのはある意味ハプニング—思い掛けなかったこと—ではある。
すらすらと韓国語を話せるようになって、住民登録も得て、韓国の習慣も気質も身につけて、すっかり「韓国人」となれたらそれが段階クリアなのか?迷いがなくなるのか?

○○人とはなにか、というのは自分にとってずっと考えるテーマではあるけれど、
「わたし韓国人です」と主張するひとことを、いったん飲み込んでみる。

もう、わたし韓国人ですって言うの、やめます。とりあえず。

韓国人とは、なんなのか。そして、在日コリアンとは何かということを見出す必要がある。自分自身で。

これは個人的な問題ではないし、同時に個人の問題でもある。
こんな悩みは20年30年前から変わっていないし、いまも韓国に来る若い在日コリアンの友人たちが同じように傷つくのを見て、心底、胸が痛む。
もう、こんな悩みが後世代にも続かないよう解決すべきだという思いもあるけれど、
反面、在日コリアンであるがために考え、傷つき、悩むことを大切だとも思いたい。
国家や、国民や、○○人という枠組みにはまらない自分自身の存在を悩むことは、
しんどいけれど、尊いことだと思うからだ。






2015/09/12

スパルタ・マッサージ。

ここのところ、体があまりにカチコチで、首から肩にかけてが痛すぎたので
人に勧められた地元のマッサージ屋に行ってみました。

知人曰く、そこは「マッサージをされてる間中、隣りのマッサージ台からうめき声が聞こえた」くらいで、「強めが好きな人におすすめ」とのこと。
なんか怖いなあ…と躊躇したけれど、「すごく効いたし、コスパも良い!」とプッシュされて、予約。

雑居ビルの3階で、見るからに怪しい。オススメされなかったら自分からは決して入らなかったであろう外観。
なにせ、営業時間が「深夜2時まで」となっていたので、一瞬別のマッサージかと思った。
行ってみると、階段の踊り場に立てかけてあった看板には、「2時」の横に棒が1本手書きされ修正されていた。さすがに2時まではつらいよねマッサージ師さんも。

ピンクの体操着みたいなのに着替えて、台の上にうつぶせになる。
はじめての担当さんは、愛想よりも貫禄をウリにしているような感じのアジュモニ(おばちゃん)で。
最初にそっと背中に手を当てられたとき、「お、これはなかなかヤル人だな」と直感した。…というのは誇張だけど、何か小手先のマッサージではないものを感じた。

黙々と揉まれていき、最初はうとうとするくらいの余裕があったのだけど…。

私は左肩がウィークポイントで、ずっと昔にケガした部分が不完治なのか、急に曲げると肩筋がつってしまう癖がある。なので、マッサージをしてもらうときいつも左腕を触られると体が緊張してしまう。
おばちゃんの手が左肩に来たとき「力を抜きなさい」と言われ、かくかくしかじかと肩の容態を話したのだが…
「いいから、力を抜いて私にまかせなさい」と。

頼もしいんだけど、痛いんだよ。それに怖いんだよ!何度も「力抜け」と言われ「もうあまりいじらなくていいです」と訴えたところ、
「じゃあどうするの?ほっとくの?治さなくていいの?!」
…と、喝を入れられてしまった。

それから何分、いや何十分経過したのか…。ひたすら痛みと恐怖に耐え、力を抜くことに集中し(矛盾)、必死で呼吸をし…もはや「ヒッ ヒッ フー」の境地でしたよ。

知人よ、今ならわかる。マッサージ中延々とうめいていた人の気持ちが。

最後の方でやっと手を緩めてくれたおばちゃんに、あなた日本人?と聞かれる。
ああ、やっぱり出たこの質問(言葉のイントネーションでバレるんだよね、って、バレるっておかしな発想だけど。)…と思いつつ、まあ日本人じゃないけど日本から来た在日同胞なのだよ、と答えておく。
おばちゃん、ふーんと納得顔で、
「日本人のお客さんもたまに来るけどね、普通このマッサージに耐えられないよ。泣く人もいるよ」と。
ちょっと、もうちょっと優しくしようよ、おばちゃん!

大げさだけど大げさじゃなく、苦行の45分を耐えしのいだのだが、
起きてみてあらびっくり、上半身が明らかに軽い!
左肩がちゃんと回る!
この効果を持って、おばちゃんマッサージ師はカリスママッサージャーに昇格。私のなかで。

そんな地元のマッサージ屋さん、全身たっぷり1時間で40000ウォン(4千円)。
けっこう、通ってます。






2015/08/17

フリーな生活のはじまり。



6月、7月は大きめの行事があったのと、気持ちのヨユウがなかったのとで、あらあらっ?!という間に過ぎてしまった。
息もつけないほど忙しかったのか、というとそういうワケでもなく、手帳を見返してみれば突然バトミントンを習っていたり(1回で終了)、2年ぶりのカラオケに行ったりしているので、それなりに時間的余裕はあったようだ。
ただ、7月いっぱいでこれまで勤務していた仕事が任期終了するというリミットを前に、
気持ちばかり焦って、気づくといくつかの案件を同時に抱えていてあっぷあっぷしていた、らしい。

6月末〜7月、日本での東アジアリーダーシッププログラム、
7月末、日韓台+在韓アジア留学生たちのサマースクール(inうちの大学)、
8月、日韓クルーズ・ピース&グリーンボート、
帰ってすぐ、日韓ミュージカル A Common Beatの合宿。

と、駆け抜けてみて、本日やっと一息。
さて、晴れてフリーター生活のはじまりだ。

このかん、いろいろ考えてみたり、
周りの方々にたくさんご心配いただいたりしたけれど、
これからちょっとの期間は、「落ちつく時間」にしようと思う。

私はどんな仕事についていても、「忙しそうですね」「大変ね」というねぎらいの言葉をいただくことが多い。
ねぎらっていただくのは大変ありがたいんだけど、実はそんなに忙しくも大変でもないんです。
でも、よほど慌ただしく、落ちつきなく見えるのだろうなあ、と反省する。

だから、ちょっと落ちついて。
これまでやり散らかしたシゴトをちゃんと振り返ってみたり、
新聞やニュースをじっくり見たり、
たまってる本を読んだり、映画を見たり。
そんな当たり前のことが、ぜんぜん出来ていなかったのは、時間がある/ないの問題ではなく、
気持ちが前を向いていなかったからかも、と思う。

9月19日(ソウル)、10月3日(福岡)でのA Common Beat公演までは、そのスタッフ作業に集中しつつ、じっくり丁寧に生きてみよう。
そしたら、まあそのうち何かが手に残るでしょう。

ところで。
この蒸し暑い真夏、ほぼ半月部屋を空けていると、どうなるでしょうか…。
日常生活のはじまりは、まずキッチンのシンク下の大掃除で半日を費やすこととなりました。






2015/05/22

焼き肉屋でアルバイト。

日本からのご一行様を連れていった、焼き肉屋さんでの出来事。

下見がてら直接予約をしに行ったときに、店長のおばちゃんが私を見て、「あなたガイドさん?」と聞いた。
いいえ、臨時の通訳みたいなことを頼まれたんです、と答えておく。
すると「どこに住んでるの?」と畳みかけるので、なんでだろう?と思いつつも最寄りの駅を伝えておいた。(これが独身ぽいイケメンだったら電話番号もつけとくんだけど…聞かれなくても…)
おばちゃんは、ふーん…と何か考えているようすだった。

そして、ご一行様がたらふく焼き肉を食べ終えて、会計をお願いするころ、
ずっと何か言いたげだったおばちゃんは、最後にもじもじしながら、
「あの〜、週に1、2回この店に来て、日本語を教えてくれないかしら」
と言うではないか。

鍾閣(ジョンガク)の飲食店街にあるこの店はオープンしてまだ数年らしいのだけど、
予想以上に日本からのお客さんが多いのだそうだ。
中国からのお客さんに対しては、店に中国出身の店員さんが多いので、言葉の問題はないらしい。でも日本語ができる人がいない。
何か、簡単な会話でもできたら…と思って、日本語の語学教室に行ってみたのだが、
「必要な言葉を、なかなか教えてもらえないのよね〜。注文を聞く言葉とか、豚肉にしますか、牛肉にしますか、とか。」と。
…そりゃ、教室では教わらないでしょうよ。

そんなわけで、ひょんなことから焼き肉屋で「日本語を教える」アルバイト、をすることになった。
要求が要求なだけに、超初級からかなりカスタマイズした授業を行うことにした。
なので、
「おはようございます」「ありがとうございます」
などの基礎挨拶の次には

「これは、ぶたの、さんまいにくです。」「ロースいちにんまえです。」

などという言葉から教えるという…。

店長さんは人の良さそうな素朴なおばちゃんで、覚えた日本語を使ってみたいが、いつも勇気がなくてお客さんに言えないのだそうだ。

でも、日本のお客さんの方がちょっとは韓国語ができる人が多くて、
せっかく来てくれたのに、迎える側の自分が全然日本語がわからないので申し訳ない、と言う。

なんか、ちょっと感激してしまった。
もちろん明洞などの観光客商戦場では、店員がモノを売るために限定的な日本語・中国語をたたき込んでいるけれど、
おばちゃんの動機は、ちょっとでも「わかりたい」し、自分で「伝えたい」という気持ちが素朴にあるような感じがして。
言語を学ぶ動機には、「伝えたい」「わかりたい」があればそれで充分。
そんな思いのお手伝いができるなら、と、教えるのも楽しくなってくる。

というわけで、
牛肉の部位の言葉を日韓両語で調べながら、ニッチなテキストを作り。
香ばしい匂いの漂う日本語教室やってます。




2015/05/14

ぶらりと島へ。

昔から5月が好きだけど、ソウルでの5月は殊更空が青く見えて、良い。

長い冬が終わって、4月。桜はいつの間にか咲きあっという間に散り、なんだか飾り物みたいであまり心に響かなかったな、と思った。4月は、悲しみが漂っていた季節でもある。

気がつけば、ジャケットを手に持って袖まくりして歩く季節になっていた。ソウルの人は暑さに敏感というか、さっさとTシャツ姿で歩いている。
空が青く、空気に密度を感じる。そうして見回してみると、新緑のなんと力強いことか。
バスから眺める街路樹が、うんと枝葉をのばして、風に揺れているのを見るだけで心が躍る。なにか、黙って日々を過ごしていてはもったいないようでどきどきする。

それで週末、ふいに思い立って、
地下鉄とバスを乗り継いで2時間半、西海の北にある島に行ってみた。
なんの計画もなく行ったので、着いてから適当にぶらぶらする。





なんとなく、標識に沿って山の方へと歩いてみたら、
思ったより傾斜のきつい山道で、はあはあ言いながら登りきると、古い城郭の跡地にたどり着いた。



登ってみたら拍子抜けするくらい小さい山だったけど、遠くに海が見え、陸地が見える。
後で聞いたところによると、それは朝鮮(北朝鮮)の地だった。


ここは韓国(南朝鮮)側からいえば、最北端にある島。朝鮮(北)から言えば南の島。互いがとても近い。
ソウルからでも、車で2時間ほど走ればDMZ(非武装地帯)にたどり着く。
ここは朝鮮半島であって、私はその南側にいるのだ。ということを改めて思う。
それが「フツー」であればよいのに。
こんなに、緑は一斉にあおあおとしているのに。山も海も、そもそも誰のものでもないのに。

そんなことを、考えたり考えなかったりしながら、ぶらり一人散策を満喫した。

夜は友人の経営するゲストハウスで、まったり。
都市を離れて、緑のなかへ。そんなことも割と気軽にできるのが、ソウルという市のサイズだと思う。

(韓国へ来て、ちょっと時間があるなら江華島の旅もよいです。ゲストハウス(asacasac guesthouse)をオススメしときます。ちょい宣伝。)




2015/04/10

冷たい4月。

桜が咲いたが、花冷えの一週間だった。

霞むような青空がようやく見え、厚手のコートを置いて出かけられるようになる頃、
週末はどこへ遊びに行こうか、ワクワクする気持ちに、いつもブレーキがかかる。

もうすぐ4月16日。

4月に入り、「セウォル号」に関する話題が再び巷をとりまいている。
ニュースで特集が組まれる。追悼の催しが開かれる。
そして私はそこに反応している自分に何か罪悪感のようなものを感じている。

去年の4月、この事件はものすごくショックだった。ものすごい無力感に襲われた。
何かとっかかりを探して、追悼場にも行った。事件の真相究明と特別法をもとめる集会やデモにも行った。キャンドルを灯し、遺族の叫びに涙した。
でも秋を過ぎるころから、私の生活から「セウォル号」に関わる情報はどんどん薄れていった。カバンにつけていた黄色いリボンのバッジは、いつの間にか取れてしまっていたがそのままにしていた。

この一年、セウォル号の事件は何一つ終わっていないし変わっていない。
なぜ309名もの犠牲者を救助することができなかったのか、その責任はどこにあるのか、
そこを明らかにする特別調査委員会と、調査をもとにした特別法を作ってくれ。
たったこれだけが、遺族をはじめとする人々が、−−何日もの座り込みや生命の危機に至るほどの断食を行って−−訴えつづけていたこと。
大統領に直訴するため青瓦台に向かった行進は何度も押さえつけられた。
遺族の行動に対して「左翼、アカ」「補償金引き上げのため」「特定地域の利益のため」などというバッシングが出回った。
紆余曲折の後つくられた特別調査委員会は、事故1周期を迎える今になっても、何一つしごとをしていない。

セウォル号の沈没は、現在の韓国社会のひずみの象徴。
そんな言葉は使われすぎてボロボロになるほど使われた。
今日の新聞にこんな寄稿があった。
「私たちはセウォル号の惨事を通じて、この社会が、私たちの生活が、どれほど脆弱な土台の上にあり、どれほど無能で無責任で信頼できない政府の手に任されているのかを実感することとなった。この惨事で総体的な破局の兆しを経験した私たちの生とは一体何なのか、国家とは何か、問うようになった。」(京郷新聞.2015.04.10 小説家ヒョン・ギヨン寄稿)
国家は人を守らない。
それは、韓国社会に限ったことではないと、私はその考えを強くする。

いまも冷たい海の底ある船体と一緒に、韓国社会は沈没し続けている。
そんな中で、私はそれなりに良くも悪くもない一年をのうのうと生きてきた。
4月だからと今更沈鬱な表情で悼むことに、だから引け目を感じる。でも、だからといって流してしまうよりは思い出す方がいい。何度でも何年たっても。

3.11大地震後の福島原発事故と、セウォル号事故。この二つはまったく同じではないけれど、ひと連なりの惨事として自分のなかに刻まれている。
だからセウォル号を思うとき、福島を考える。
桜が蕾をつけそして散り始めるまでの季節を、痛みとともに迎える。







2015/04/07

職場から見る風景。

午後、
一息つこうと、廊下のつきあたりにある小さいベランダに出た。
昨日久しぶりの大雨が降って空気は澄んでいたが、雨雲がまったりと広がって、グレーな風景。
職場である大学の、すぐ裏の風景だ。


すぐ手前に、古い昔風の家があり(小さい中庭を囲んでぐるりと居住スペースのある韓屋タイプ)、
はるか向こうに、北漢山の堂々とした山脈が見える。
そして、その間を遮る、アパートの工事現場。

ちなみに韓国では「アパート」とは最低5階建て以上の居住建築のことで、大抵は十数階以上の、日本でいうところの「マンション」を呼ぶ。
わたしは「日本では2階建ての木造アパートに住んでいて…」と慎ましく言ったところ、「それをアパートとは言わない」と笑われた。

話は戻って。
この辺は古い住宅地だけれども、隙間すきまに新しいアパートがどんどん出来て、モザイクのように新旧の住宅がごちゃごちゃ混ざり合っている。
よく見ると、新しいアパートは大抵、色違いのレンガ風外装の似たようなデザインなので、同じ建設業者なのだろうかと思う。

毎日毎日、工事のためにギュイーン…と歯を削るような不快な音が響いている。
その不快さのせいで、工事の風景は私にはみにくいもののように映っていた。
ぼーっと眺めていたら、真ん中の茶色い建物のあいだに、人影が見えた。
よーく目をこらしてみると、組んだ足場の上で、普段着のような格好の男性が、外壁に茶色いレンガ風タイルを一枚一枚貼っていた。

(写真をとった瞬間は、人影はちょうど奥の方に入ってしまった)

なんか、ちいさなショック。
あんな大きな音を響かせて、ばかでかい穴ほったりコンクリートを流し込んだりしてたけど、
壁のタイル一枚一枚は、職人さんが手で貼っているのか。

当たり前っちゃ当たり前の話だけど。
どんなに大きなものも、人の手がつくっているんだなあ。
と、小学生の観察日記並の感想。

古い町並みを壊して、「開発」のもとに効率的で均一で大型な建物を作る”大きな手”には、
顔がないなと思う。
現場で、タイルを貼っているあの人はどんな家に住んでいるのだろうか。などと考えてみた。

韓国では最近、家賃の急騰と分譲アパート開発+ローン金利引き下げ政策で、
住居困難者が急増するだろうというグレーなニュースが流れています。



2015/03/31

三度目の春。

やっと暖かくなってきた。

ソウルではいつから「冬」だったかと思い返せば、
去年11月半ばくらいに初めて気温がマイナスになったと記憶している(11月の全国統一受験日は毎年必ず気温がぐっと下がって、「受験寒波」という言葉があるくらい)。
ということは、4ヶ月半くらい冬だった、ということになる。じっさい長い冬だった。

ほころんだ梅や木蓮の白、ケナリ(レンギョウ)の黄色が目に飛び込んでくると、
おお、久しぶり!待っていたよ!という気分になる。
2年前、留学のためにソウルに来たばかりの頃、寮の部屋から見える裏山は茶色くくすんでいた。
山の木々に花が咲き始めたころ、クラスメートのインドネシアの友人が、
韓国の木には花が咲かないと思ってた! 
と、喜んでいたことを、何となく思い出した。
花が咲かないわけないだろう〜と笑ったけど、南アジアの人がそう思うのも無理ないくらい、韓国の冬は冷たく無愛想だった。

韓国で三度目の春。
「さんどめのはる〜」って何かの歌の歌詞にあったよなあと考えたが思い出せない。

3月は締めの季節、4月は始まりの季節。
って、日本ではそういうイメージがしっかり刷り込まれていたけれど、
韓国では、学校が始まるのは3月からで、大学などではオリエンテーションが2月末から始まっていたりするので、「4月始まり」というのが全くしっくり来ない。
職場が大学なので、もう既に通常授業がはじまって一月以上たっているのを見ている私としては、いまFacebookで日本の卒業式のようすを見て奇妙な時差を感じたりしている。

しかし長い間住んでいた地での季節と慣習の感覚は、なかなか抜けないようで、
やっぱり、3月になにか一区切りをつけ、4月から新たに始めようという気分になる。

さて。
なにを新たに始めようか。

とりあえず今年のささやかな目標は「山に登る」ということで、山の麓に住んでいるソウル人らしく、初心者ハイキングコースから初めてみようかなーと思う。そんな春。

(写真はソウルじゃないけれど。^^;;)





2015/03/07

「韓国の年齢でいえば」。

韓国では年齢を数え年で表すので、慣れるまで非常にややこしかった。
生まれた時が、1歳。そして年齢が増えるのは誕生日ではなく新しい年に変わったとき。
なので、12月生まれだと、うまれた翌月には2歳なわけだ。(だからか、1~2歳までは年ではなく月齢で言うことのほうが多いかも)

年齢を聞いたときに自分より2歳上だと認識した人が、じつは同い年だった。なんてこともよくある。面倒なので、年齢を聞かれたら生まれた年で言うようにしている。
もしくは、「韓国の年齢で言えば(한국 나이로 말하면)...」と前置きして、数え年で言う。

まあ、1歳や2歳どうでもいいことかもしれませんが…どうでもよくないのが韓国社会で。
初対面でも、年齢をがんがん聞かれる。なんなら、名前の次には歳を聞かれる。
なぜなら、年上か年下かで呼び方(オンニ・ヌナ(姉さん)、オッパ・ヒョン(兄さん)をつけるかどうか)や、敬語を使うか否かが変わるから。
日本だと「失礼ですか…」と恐る恐る歳を聞いたりするけど、こちらではむしろ礼儀のために歳を聞くのかもしれない。良いか悪いかは別として。

新年を迎えると一律で1歳年をとる、というのは、やだなあと思っていたけれど、
案外、「誕生日が来たらプラス1歳」という考え方のほうが、狭小かもしれない。
なぜなら、誕生日の日にちというものも、曖昧なものだから。

先日、韓国の友人に誕生日を聞いたら、
「今年は1月21日…くらい。」という。
なんなんだその曖昧さは!と笑っていたら、友人いわく「旧暦で覚えているから、毎年誕生日はカレンダーを見ないとわからない」と。
そうなの?!びっくり!(ちなみに、現在30~40代以下の世代でほとんどは誕生日は新暦だそうだけど。友人は40代前半)
そういえば、昔、在日スーダン人の友だちに誕生日を聞いたら「しらない。覚えてない」とあっさり言っていた。自分の誕生日を知らないなんて!と驚愕したけれど、彼にとっては「それが何か?」という感覚だったみたい。(それで、友人たちとで勝手に出会った日を誕生日に決めて、誕生日パーティーをした覚えがある)
大学院でバングラデシュ人の級友は、登録上は12月31日が誕生日だったけれど、「本当は4月に生まれたんだ」というので、4月に誕生日を祝ってあげた。

そう思うと、(陽暦の)誕生日にきっちり年をとる、なんてことはない。
年の重ね方は人それぞれだ。私たちは曖昧に成長して老いていく。何歳、という数は、じつは任意なのだ。

と、言いつつも。
いくつになっても誕生日を楽しみにしている私である。

去年くらいから自分で「だいたい40歳」と称してきたので、すっかり私は四十路。と思ってしまっていたけれど。そういえば昨日まで38歳だったのか!(どこへ行ってたんだ、この2歳は…)
本日をもって満39。「韓国の年齢で」ちゃんと四十路でございます。
いまだに青臭く悩み惑い続けている今日この頃。
「不惑」の域にはほど遠し。




2015/02/28

引っ越し一周年。

うかうかしていたら、2月がするっと過ぎてしまった。
(いっつもこんな入りだな、最近…)

そういえば今日は、引っ越し一周年なのであった。
去年2月、ソウルに着いて、3日で探して決めたフルオプションワンルームの部屋。
 (当時のことを日記に書いていた)
 

ちっちゃいけど、冷蔵庫・洗濯機・エアコンつきだったし、なにより新築で小綺麗で収納がけっこうあるところが気に入った。今でもまあ不自由ない。…ひとりならば。

ここへ来たちょうど一年前は、
とにかく論文を終わらせるまでの一時宿のような気持ちもあったし、
論文を終えた後に控えていたシゴトのことは、まあ始まってみればなんしかなる、としか考えられていなかった。

引っ越し当日の荷物は、自分で運べる大きさの段ボール5個とスーツケースだけだった。

もともと物をあまり持たないタチだけど、来る前に思い切っていろいろ処分したんだった。
身軽だった。すっからかんで、気楽で、寂しかった。

いま、部屋を見回すと、それなりに物が増えたなあと思うのと、
一年たってもまだこんなにスカスカ?と思うのと、同時にある。
装飾(あそび)の少ない、簡単な部屋。
それはそのまま、私のソウル生活のスタンスに似ていると思う。
浅く腰をかけたまま、いつでも立てるタイミングを伺っているような。

いつもぐずぐず迷いを抱えたまま、もうちょっとここで住んでみるのだろうな。

まあ、そもそも契約あと一年残ってるしなあ。





2015/01/27

石の上にも20年。

駅近くの交差点の角で、いつも座って何かを売っているおばあちゃんがいる。

春も夏も秋も、同じ場所に座って、なにかせっせと手作業しながら売っている。
にんにくを剥いていたり、栗を剥いていたりする。

彼女は私がよく利用するスーパーのすぐ目の前に陣取っているので、あ、おばあちゃんがいる、と気づくのはいつも買い物を済ませて出てきた後だ。

夏はこんな風に、大変ラフな感じで作業および販売をしている。まるで自宅の台所のすみのように。



真冬、日中もマイナス気温になるこの辺りは、アスファルトの路上は凍てつく寒さだ。
そんな中、彼女は冬仕様でやっぱり同じ場所に陣取っている。

ある日、ん?ドラえもん?ってくらいまんまるになって座っている彼女に気づいた。




今までずっと、気づいてもスルーしてきたので、いつも通り交差点を渡りかけて、
なぜかこの日は、思い立ってUターンした。
その日は12月23日で、私は明日東京の実家に帰るぞという日で。
なんとなく、その、大きな理由はないけれど、何か声をかけたくなったのだ。

その日彼女が売っていたのは、剥いた栗と、ピーナッツと、もやしだった。

栗を下さい、と声をかけた。実家へのお土産に、栗ご飯にでもして食べてもらおうと思って。
ちなみに、私は栗は好きじゃない。

おばあちゃんは(たぶん無愛想だろうという私の予想を裏切って)にこにこして「アイゴ、カムサヘヨ〜(まあありがとう)」と栗を一袋差し出した。5000ウォン(約500円)だった。

「寒くないですか?」と聞くと、
「ケンチャナヨ〜(大丈夫だよ)」とにこやかにいう。そして、
「わたしゃここで20年座ってるよ!」と胸を張った。

20年!
その時間の幅というものを考えてみた。

私がちょうど大学に入って、サボったり悩んだり恋したりして、社会とか世界とかいうものに出て、また青臭く悩んだり闘ったり出会ったり別れたりしてた、そのころから、
彼女はほぼ毎日、ここに座っていたのかな。
どんなソウルの風景を、どんなソウルの変化を見てきたのだろうか。

その一つひとつ、でなくとも、彼女の記憶に残っているものだけでいいから、紡ぎ出せば一つの物語が現れるだろうな。
彼女の見てきたものが、そのまま映像になるなら、そんなロードムービーを見てみたいと思った。

20年座っている彼女に、何かうまい言葉が思い浮かばず、どうも、といって剥き栗の袋を持って帰った。

栗を入れたビニール袋の内側に水滴が浮かんでいたので、ザルにあけて水気を飛ばした。君たちは腐らずに日本に行かねばならないからね、と栗に言い聞かせながら。



部屋にはもらったポインセチアがあって、ああ明日はクリスマスイブなんだな、と思った。

この栗がその後、どのように誰の胃袋に収まったか、そういえば私はしらない。