2016/03/21

最近の日々。

同居人である「師匠」の職場は二勤交代制なので、週ごとに朝出勤、午後出勤が変わる。

ちなみに師匠というのは夫のことである。
師匠とは、はじめて彼の写真を見た妹の感想が「ざこば師匠に似てる。」だったことに由来する。「夫」も「亭主」も「旦那」も「ハズバンド」もどれもしっくりこないので、当面この渾名で登場してもらうことにする。

朝出勤の週は5:40に起床して、朝ご飯を食べて、6:10に送り出す。
これは、完全夜型で早起きがめちゃめちゃ苦手な私にとっては、画期的な生活の変化だ。
送り出したあと、食器を洗い、掃除をし(毎日ではないけど)、洗濯をし(毎日ではないけど)、片付けて一息ついてもまだ8時になっていない!なんていい気分!
今まで自分にもっとも縁遠かった「早起きは三文の徳」を実感。

朝の時間はシゴトがはかどるというのは本当だ。
とはいえ、ひとたびパソコンに向かってしまうと、あれもこれも手を付けはじめてしまい、あっという間に午後になる。
一休みしようかな、と時計を見ると4時過ぎで、ちょうどその辺りに早番勤務を終えた師匠がただいまーと帰ってくる。
師匠は家にいる間中ずうーっとテレビを点けるので、テレビと机が同居している部屋での作業はなかなか進まない。つごう、師匠が朝出勤のときは早い日中、午後出勤のときは2時以降〜夜までが在宅ワークタイムになる。

その合間に家事をする。家事にハマると半日キッチンに立ち続けていることもあるけど。
料理は、いままでのところほぼ完全韓国料理だ。
おかずの8,9割が、赤い。
韓国料理のよいところは、作りおきのおかずでほぼ毎食卓をクリアできること(それも家庭の趣向によるだろうが、うちはメインのおかずは特にいらない、というタイプ)。
何種類かのキムチ、何種類かのナムル、スープを、時々気合いを入れてダーッと作り、
後は食卓に出す→食べる→片付ける の繰り返しだ。慣れると、この上なく楽。




料理も、片付けも掃除も好きなシゴトだ。
時間があるかぎり、こまこまと家の事をするのはまったく苦じゃなく、じつは昔からナチュラル系の生活雑誌を見たり、こんな家にしようと妄想するのが大好きだったりもする(全然そうは見えないとよく言われますが)。

新しい暮らしがはじまってはや3ヶ月。
最初は「定期的なシゴトが決まっていない」ことに、妙に焦ったり落ち込んだりしていたこともあったけれど。
このかんの日々が、人生でいちばんゆとりを持てた生活かもしれない、と思う。
いまは在宅ワークがメインなので、時間を自由に調整できるのが本当にありがたい。

4月からまた、いくつか新しいことが始まる予感。いや、予定。
しかしスケジュール帳はまだ空白をたくさん残しておく。
今年は「暮らす」というのをきちんとやっていけるようにしよう。
と、いまのうちに思っとこう。





2016/02/29

田舎で旧正月を。

だいぶ前の話になってしまったけれど、
2月5日から8日まで、旧正月をはじめて「嫁」として田舎で過ごした話。


韓国でヨメになると盆と正月が大変だ、という話は呪いのようにあちこちから聞かされ続けてきた。
元来「女は家」と表す嫁という言葉が気に入らなかったから、「わたしはケッコンはすれどヨメになんぞならん!」と息巻いていた。
しかし韓国においては、私がどんな主義主張を持っていようが、周りは勝手に大変なヨメ像を押しつけてくる。

幼い頃は、在日のわが親族も正月や祭祀には親戚一同集まって法事を行っていた。居間では男性陣は陣取って飲み食いし、女性陣は朝から台所に立って料理に忙しく、一段落すると男性陣とは別の部屋で食事をとる。そこでは主に、夫や理不尽な習慣をディスる女トークが花咲いた。
「一度でいいから、お正月にチジミじゃなくてお刺身が食べたいわ。」
と嘆いていた叔母さんの言葉を今でも覚えている。
物心ついたころに参加した女ばかりの自由なトーク時間を面白いなと思いつつも、私は大人になったら絶対こんな習慣に染まりたくない、とも思っていた。

ところが、四十路を迎えるいま、「こんな習慣」の本場(?)でミョヌリ(嫁)と呼ばれるものになってしまった。

夫となった人の実家は、半島の南端の地域のど田舎にある。
秋夕(チュソク)のとき初めて訪れたが、本当に、見渡すかぎり田んぼと畑と山、という風景のなかに古い実家がポツンと佇んでいる。

実家の玄関をあけるとまず、年季の入った家の黴臭いような懐かしいにおいがする。
テレビとベッドだけがある居間と、台所と、シャワーがついているトイレ。住居空間はそれだけの簡素な平屋だ。そこに、お義母さんが一人で住んでいる。
義兄さん方はまだ来ておらず、正月直前に来るとのこと。で、早く来すぎた私たち、そしてお義母の3人で2日間を過ごすことになる。

盆正月のなにが大変かって、とにかく料理をつくって食べて片付けてまたつくって…が大騒ぎなのだが、
足腰の悪い義母はもうだいぶ前から、長い時間台所に立っていられなくなっていて、祭壇に供える正月料理はほとんど市販の総菜で済ますという。
なので、食材の買い出しも、料理の仕込みも、大量の食器洗いもなく、
私たちは、到着した日から翌日いっぱいまで、
お義母さんの作ったおかずで食事→テレビ観る→寝る→起きて食事(同じおかず)→テレビ観る→食事→寝る… というサイクルでひたすら時間を送ることとなった。
何もしないというのは落ち着かなくて「何か手伝いましょうか」というと「座っとけ」と言われ、
本当にただ座っているしかないという状況。

わいわいがやがや人が集まり、座るヒマもないほどめまぐるしい正月準備、
…とはほど遠い、果てしなく静かな時間がまったりと流れていく。

もしかしたら、ミョヌリの先輩方から「あまーい!」と言われるかもしれないが、
まあ、こういう実家で私はちょっと胸をなで下ろしている。




2016/01/19

どこに住むか、の問題。

私の住んでいるS洞(洞は区の下の行政区域)は、不思議なかたちをしている。

六角形の空間、その名も「ダイアモンド広場」というただの空間を中心に、
六つの辺に沿ってぐるりと商店街がならび、それをさらに取り囲むように住宅団地が放射状に広がっている。
いかにも人工的な団地だけれど、住んでみて団地まわりの商店街のにぎわい、人出の多さに驚いた。
特に私の住むH団地に隣接している商店街は、「必要なものが、必要以上にある」といった感じだ。
3つのスーパーをはじめ、コンビ二、イトーヨーカ堂くらいの規模の百貨店、食堂、飲み屋、屋台、道ばたで野菜や乾物を売っている露店、ダイソー、洋服屋、アウトドアショップ、靴屋、コスメショップ、貴金属店、病院は総合病院から美容皮膚科まで数件…etc。
これらがほぼ、家から徒歩5分圏内にある(ちなみにスポーツジムでも通ってみようかと調べたら、徒歩圏内に4店舗あった)。

新しい住まいを決めるとき、私はできれば団地だけは避けたい、と思っていた。
同じ形の20〜30階建てのアパート(日本でいうところのマンション)が、同じように並んでいる韓国の団地の風景は、その地元とか町とかの空気にまったく関係なく突然生えた異物のように見える。
どの町にも同じように建っているアパート団地群は、少しも魅力的にうつらなかった。
それなのに。

* * * *

去年の秋、二人で一緒に住もうという話になったものの、引っ越し話は一向に進まず私はちょっとイラついていた。
ソウルを離れ、連れ合いの住むA市に移ることは了承していたけれど、A市のどこに目処をつければよいのか見当がつかない。
ある日しびれを切らせて「いまから下見にいく!」と、連れ合いの住んでいる町に押しかけた。
相手はのほほんと待ち合わせ場所に来て、何も聞かずS洞に私を連れていった。

私が良さそうな不動産屋をネットで調べてピックアップしておいたにも関わらず、お構いなしに手近な不動産屋に入る。
「○○くらいの予算、チョンセ(※前払い一括保証金の家賃制度。「どたばた家探し」参照)で、H団地がいい。」と、わたしゃ聞いてないよ!という条件を連れ合いはしれっと並べ、不動産屋の女主人は「最近チョンセの物件はなかなか無いのよね〜」と言いながら、H団地のうちの2、3件を出してくれた。
そして、そのなかの南向きの部屋を勧められ、
連れ合いは内見もせずに「どう、ここにするか?」と笑顔で尋ねるのだった。
き、決められません!!そんな、一杯飲み屋を選ぶようなノリで!

そういう、「住まいの決め方」に関するギャップに私はへこみ、連れ合いに対して無闇な反抗に出た。
「団地はぜったい嫌なの!」
「なんで?団地は便利だよ。出前頼むときアパートの屋号言うだけで良いんだから。」(そこかよ)
「夜、ひと気がなくて怖いじゃん!」
「24時間警備の人たちがいるよ。最近は一戸建てのほうが危ないんだよ」
「でも15階とか20階とかは人間の住む高さじゃないよ!
 エレベーター止まったらどうすんの!人は土から離れて生きられないのよお!」
地震を体験したこともなく、ラピュタを見たこともない相手には、通じなかった。

* * * *

そんなこんなで、軽くすったもんだしたものの、
もろもろを経て(その顛末は省略)、結局、S洞のH団地に収まってしまった。
住めば都。いや、都から離れた身としてはそうは言えないけど。
とにかく全てが手の届く範囲にあるこの地域での生活は、
手放しがたい「便利さ」を得てしまった。
いまのところ、そう悪くはないけれど、
便利さは、動きとか感覚を鈍らせる。ような気がする。

ともかく、新しい環境で新しくはじめる生活だから、
これからこの地域の魅力を探しだしてみようと思う。
六角形のまわりをぐるぐる歩いて、地元探索に精を出そう。
もうちょっと、あったかくなったら。



2016/01/06

招かざる訪問者。

引っ越して3週間たった今日の夕方の出来事。

買い物から帰ってきて、荷物を置いた直後にドンドンドンと玄関ドアを叩く音。
誰ですか?とドア越しに聞くと、
「○○確認ですよー」とおばちゃんの声がした。

確認ですよって言われても全然イミがわからない。
恐る恐るドアを開けると、まるで町内会会長のようなアジュモニ(おばちゃん)が何やら書類を持って、ドアの隙間から玄関にのしのし入ってきた。
「最近引っ越して来たのよね?ハイここ(と書類を差し)、世帯主の名前…あってる?アナタの名前入ってないけど…ああそう、新婚なのね」
書類の件名には「転入確認書/通帳確認書」と書いてあった…ような気がしたが、これ何ですか?と聞く前に、アジュモニは無遠慮に部屋を眺めまわし、
「あらー、内装やったのねー、キレイにしてるわねえ。ちょっといい(わよね)?」
と、ずかずか入ってくるではないか。
居間をぐるりと見て「あらあ、広く感じるわねえ」「本が好きなのねえ(=本棚しかないわねえ)」と。「あ…まだモノがあんまりないもんで」と、ついこっちがヒクツに応答してしまう。

「あらあら、これなあに?!すてきねえ!」と目を付けられたのは、格子の形に開くブラインドで、「どこで買ったの?いくらだった?」とたたみかけてくる。
さすがにこの辺で(やっと)我に返って「で、ご用件は?」と言いかけたタイミングで、アジュモニは転入確認の書類のサインを求めてきた。

ところが、書類の確認もそこそこに。
「旦那は?まだ帰ってきてないの?遅いわねえ」
「あなたいくつ?あらそんなお年なの?若く見えるわ。…なんで結婚がそんなに遅かったの」
「子どもは?いないのね?まあ早く作らなきゃね」
「旦那の出身地はどこ?あなたは?」
「働いているの?週何日?何時出勤?」
久しぶりに見知らぬ人の厚顔無恥力に圧倒され、腹が立つより呆気にとられ、思わず一問一答してしまう私。

そんでもって。
「明日は何するの?」と幼稚園の友だちのような無邪気な質問をされた後、
「教会には通ってる?」と聞かれて、ようやく再びハッと我に返った。
「いいえ」と答えたら、まるで心外というような表情で「なんで?」と聞かれたので、
「わたし仏教徒ですから」とまじめな顔で答えておいた。
「そう…私もね昔は違ったんだけど、教会でイエス様にお祈りしたら病気が治ったのよ、それ以来イエス様を信じるのよね。で、明日1時間くらい時間あったら教会に…」
「いや、無理っす」
「どうして」
「私にはお釈迦様がいますから。」

また何か言い出しそうなアジュモニをやっと玄関先まで追いやった。
出る間際にアジュモニが残した言葉は、(開けっ放しだった)トイレを見て「あらここも改築したのね…いくらだった?」
「知りません、覚えてません」

玄関を出ながらアジュモニは、
「イエス様を信じなさい〜」
と言い放って、去っていった。

いやあ。
正月+週末は家でダレていた自分に、このアジュモニの登場は
青唐辛子並みの刺激でした。
油断ならぬなあ、と思った新居生活。

というわけで、この機に「引っ越し顛末記」をちょっとずつ思い出しながら書いてみようと思う。

つづく。(つづかないかもしれない)




2015/12/31

1年を振り返ってみる。

結構昔から自分の恒例行事なので、大晦日に1年を振り返ってみる。だれでもやってることだけど。

1月、ビッグイシュー日本の知人をはじめとする研究会の韓国訪問のコーディネート&同行通訳。やりがいを感じて、今後こういうことをやりたいなあと漠然と思う。そして今後につながる出会いのあった月。

2月、日韓の大学の教授陣のフォーラムのため福岡、長崎へ。そういえばソウル一人暮らし1周年。

3月、誕生日。韓国の歳ではずっと40だと思ってたのに、考えてみれば39歳になったのであった。へんなの。上海での「東アジア地球市民村」イベントに参加→雲南省の大理スタディーツアー。大理すてき!

4月、日韓ミュージカル「A Common Beat」の話が舞い込んでくる。会議の通訳を引き受けたつもりが、3回目以降の会議では「共同代表」になっていた…。

5月、ミュージカルの体験会(参加者募集)スタート。初めての合宿。日本からコアプラスやキタシバのメンバーが来て、またソウルツアーの同行をさせてもらった。

6月、東アジアリーダーシッププログラム(日韓若手宗教者のワークショップ)の日本ツアーで、埼玉県小川町フィールドワーク。あ、そうそう、やっと国民健康保険に加入。

7月、コモンビート練習。日韓台そしてアジア各地の学生達のワークショップ in うちの大学。これが最後のシゴトとなる。

8月、日韓クルーズ「Peace & Green Boat」参加、楽しかった。帰ってくるなりミュージカルの最後の日韓合同合宿。

9月、ミュージカル A Common Beat ソウル公演!!秋夕(チュソク=旧盆)のお休みに初めて彼の田舎に行く。

10月、A Common Beat 福岡公演!感無量。いっぱい泣いた。その後、彼が来日、親に挨拶。

11月、世界人権宣言大阪連絡会議と多民族共生人権教育センターの来韓、同行通訳。その後、去年ソウルでの「国際社会経済フォーラム」で会った川崎市の職員さんがたが来韓し、飲む(飲んでばっか)。

12月、日本で「東アジア地球市民村」のスタディツアーで東京、長野、山梨、綾部。その後石巻でのコモンビートミュージカル鑑賞。韓国に帰ってきて、12月9日二人で住む家契約、11日に引っ越し、新生活はじまり。遠くから友だちが会いに来てくれる。我が家族が日本から訪韓、ほぼ初めて4日間家族と旅行をした。そして、28日に、法的に結婚。
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2015年の1月に書いていた日記。
「この1年しかないって思おう。
 この1年で、すべてやる。
 シゴトを軌道に乗せるのも
 韓国生活も
 私が私としてできることをみつけるのも
 一人で自由にいられるのも。
 やろうと思ったことを、必ずやろう。
 がむしゃらになれるのも、この1年しかない」

とかいって。
できなかったことも、いっぱいあるけれど。^^;;

いつもの事ながら、今後のことをもやもや模索している私であるけれど、きっと一生もやもやするのが私ということで、今年は気分よく締めることにしよう。

2016年、平和で喜びがあふれる年になりますように…


 今年の最後に、心につきささった、石巻の風景。




2015/11/25

そのひとことを飲み込んで。

ずっと思っていたことを、ちょっと書いてみる。

銀行の窓口で、タクシーで、何かを問い合わせたり申し込んだりする電話口で、
最初の一言を発するときの緊張が、いまでも苦手だ。

タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げると、最初のほんの少しの会話で気づく人はこう言う。
「ハングッサラム アニシネヨ(お客さん、韓国人じゃないね)」
そのとき私に元気があれば、韓国人だけど日本出身の在日同胞です、と言うし、元気じゃなかったり面倒であれば日本から来ました、とだけ言う。
日本から来たという言葉でなぜか大抵、運転手さんは「やっぱり当たった」とばかりに満足げに、日本に関する自分の関心事を話したりする。
私は、『ああやっぱりバレた』と、小さくがっかりする。
この「バレた」と「がっかり」という感情は、どこからくるものか。何故、そんな風に感じてしまうのか。

韓国生活、トータルで2年7ヶ月たった。思い返せば、来たばかりの頃はいまよりもずっと、韓国語を話すのがぎこちなかった。
銀行で初めて口座を作るとき、住民登録証でも外国人登録証でもない「居所証明」を持って要件を伝える私の前で、係員は隣りの係員に「外国人なんだけど、担当者呼んで」と言った。

そのとき、私はキレた。
自分でも止めようのない感情が膨れあがって、押さえられなかった。

以来、外国人と扱われること、日本人と思われることに対して過剰に反応してしまうようになった。携帯電話の加入のとき、郵便局の窓口で、店で物を買うとき、何気ない会話で。
友人に「あなたがそういう反応を示すとき、顔がとてもこわばってる」と諭され、ハッとしたこともある。無意識に肩に力が入っていたのだ。
2年くらい経ち、さすがにもうそんなに反応しないな、と思っていた。が、忘れた頃にこの『アナタ外国人/日本人ダヨネ爆弾』は炸裂する。そして少しずつ心を傷つけられる。
「いい年して今さらもう傷つくな!」と一方の自分が突っ込むときもあるけれど、しばらく心の奥でいじいじしているのだ。

なんでなんだろう。と素朴に考え直してみる。私は「韓国人」として認められたいのか?

「イルボンサラム アニラニカヨ! ハングッサラムイエヨ!」
(日本人じゃないってば!韓国人なんですよ!)

何度も口にしたこの言葉は、実際叫んだりはしないけど、いつも絶叫のように心を行き来する。
それから、

「日本にいても外国人、韓国にいても外国人……」

この哀愁に満ちた節も、何かにつけて心寒く流れる。

でも。
そもそも韓国人なのか、私は。東京で生まれたときは朝鮮籍で、韓国国籍は18歳から始まった。
韓国に住むことになる、というのはある意味ハプニング—思い掛けなかったこと—ではある。
すらすらと韓国語を話せるようになって、住民登録も得て、韓国の習慣も気質も身につけて、すっかり「韓国人」となれたらそれが段階クリアなのか?迷いがなくなるのか?

○○人とはなにか、というのは自分にとってずっと考えるテーマではあるけれど、
「わたし韓国人です」と主張するひとことを、いったん飲み込んでみる。

もう、わたし韓国人ですって言うの、やめます。とりあえず。

韓国人とは、なんなのか。そして、在日コリアンとは何かということを見出す必要がある。自分自身で。

これは個人的な問題ではないし、同時に個人の問題でもある。
こんな悩みは20年30年前から変わっていないし、いまも韓国に来る若い在日コリアンの友人たちが同じように傷つくのを見て、心底、胸が痛む。
もう、こんな悩みが後世代にも続かないよう解決すべきだという思いもあるけれど、
反面、在日コリアンであるがために考え、傷つき、悩むことを大切だとも思いたい。
国家や、国民や、○○人という枠組みにはまらない自分自身の存在を悩むことは、
しんどいけれど、尊いことだと思うからだ。






2015/09/12

スパルタ・マッサージ。

ここのところ、体があまりにカチコチで、首から肩にかけてが痛すぎたので
人に勧められた地元のマッサージ屋に行ってみました。

知人曰く、そこは「マッサージをされてる間中、隣りのマッサージ台からうめき声が聞こえた」くらいで、「強めが好きな人におすすめ」とのこと。
なんか怖いなあ…と躊躇したけれど、「すごく効いたし、コスパも良い!」とプッシュされて、予約。

雑居ビルの3階で、見るからに怪しい。オススメされなかったら自分からは決して入らなかったであろう外観。
なにせ、営業時間が「深夜2時まで」となっていたので、一瞬別のマッサージかと思った。
行ってみると、階段の踊り場に立てかけてあった看板には、「2時」の横に棒が1本手書きされ修正されていた。さすがに2時まではつらいよねマッサージ師さんも。

ピンクの体操着みたいなのに着替えて、台の上にうつぶせになる。
はじめての担当さんは、愛想よりも貫禄をウリにしているような感じのアジュモニ(おばちゃん)で。
最初にそっと背中に手を当てられたとき、「お、これはなかなかヤル人だな」と直感した。…というのは誇張だけど、何か小手先のマッサージではないものを感じた。

黙々と揉まれていき、最初はうとうとするくらいの余裕があったのだけど…。

私は左肩がウィークポイントで、ずっと昔にケガした部分が不完治なのか、急に曲げると肩筋がつってしまう癖がある。なので、マッサージをしてもらうときいつも左腕を触られると体が緊張してしまう。
おばちゃんの手が左肩に来たとき「力を抜きなさい」と言われ、かくかくしかじかと肩の容態を話したのだが…
「いいから、力を抜いて私にまかせなさい」と。

頼もしいんだけど、痛いんだよ。それに怖いんだよ!何度も「力抜け」と言われ「もうあまりいじらなくていいです」と訴えたところ、
「じゃあどうするの?ほっとくの?治さなくていいの?!」
…と、喝を入れられてしまった。

それから何分、いや何十分経過したのか…。ひたすら痛みと恐怖に耐え、力を抜くことに集中し(矛盾)、必死で呼吸をし…もはや「ヒッ ヒッ フー」の境地でしたよ。

知人よ、今ならわかる。マッサージ中延々とうめいていた人の気持ちが。

最後の方でやっと手を緩めてくれたおばちゃんに、あなた日本人?と聞かれる。
ああ、やっぱり出たこの質問(言葉のイントネーションでバレるんだよね、って、バレるっておかしな発想だけど。)…と思いつつ、まあ日本人じゃないけど日本から来た在日同胞なのだよ、と答えておく。
おばちゃん、ふーんと納得顔で、
「日本人のお客さんもたまに来るけどね、普通このマッサージに耐えられないよ。泣く人もいるよ」と。
ちょっと、もうちょっと優しくしようよ、おばちゃん!

大げさだけど大げさじゃなく、苦行の45分を耐えしのいだのだが、
起きてみてあらびっくり、上半身が明らかに軽い!
左肩がちゃんと回る!
この効果を持って、おばちゃんマッサージ師はカリスママッサージャーに昇格。私のなかで。

そんな地元のマッサージ屋さん、全身たっぷり1時間で40000ウォン(4千円)。
けっこう、通ってます。