2015/02/28

引っ越し一周年。

うかうかしていたら、2月がするっと過ぎてしまった。
(いっつもこんな入りだな、最近…)

そういえば今日は、引っ越し一周年なのであった。
去年2月、ソウルに着いて、3日で探して決めたフルオプションワンルームの部屋。
 (当時のことを日記に書いていた)
 

ちっちゃいけど、冷蔵庫・洗濯機・エアコンつきだったし、なにより新築で小綺麗で収納がけっこうあるところが気に入った。今でもまあ不自由ない。…ひとりならば。

ここへ来たちょうど一年前は、
とにかく論文を終わらせるまでの一時宿のような気持ちもあったし、
論文を終えた後に控えていたシゴトのことは、まあ始まってみればなんしかなる、としか考えられていなかった。

引っ越し当日の荷物は、自分で運べる大きさの段ボール5個とスーツケースだけだった。

もともと物をあまり持たないタチだけど、来る前に思い切っていろいろ処分したんだった。
身軽だった。すっからかんで、気楽で、寂しかった。

いま、部屋を見回すと、それなりに物が増えたなあと思うのと、
一年たってもまだこんなにスカスカ?と思うのと、同時にある。
装飾(あそび)の少ない、簡単な部屋。
それはそのまま、私のソウル生活のスタンスに似ていると思う。
浅く腰をかけたまま、いつでも立てるタイミングを伺っているような。

いつもぐずぐず迷いを抱えたまま、もうちょっとここで住んでみるのだろうな。

まあ、そもそも契約あと一年残ってるしなあ。





2015/01/27

石の上にも20年。

駅近くの交差点の角で、いつも座って何かを売っているおばあちゃんがいる。

春も夏も秋も、同じ場所に座って、なにかせっせと手作業しながら売っている。
にんにくを剥いていたり、栗を剥いていたりする。

彼女は私がよく利用するスーパーのすぐ目の前に陣取っているので、あ、おばあちゃんがいる、と気づくのはいつも買い物を済ませて出てきた後だ。

夏はこんな風に、大変ラフな感じで作業および販売をしている。まるで自宅の台所のすみのように。



真冬、日中もマイナス気温になるこの辺りは、アスファルトの路上は凍てつく寒さだ。
そんな中、彼女は冬仕様でやっぱり同じ場所に陣取っている。

ある日、ん?ドラえもん?ってくらいまんまるになって座っている彼女に気づいた。




今までずっと、気づいてもスルーしてきたので、いつも通り交差点を渡りかけて、
なぜかこの日は、思い立ってUターンした。
その日は12月23日で、私は明日東京の実家に帰るぞという日で。
なんとなく、その、大きな理由はないけれど、何か声をかけたくなったのだ。

その日彼女が売っていたのは、剥いた栗と、ピーナッツと、もやしだった。

栗を下さい、と声をかけた。実家へのお土産に、栗ご飯にでもして食べてもらおうと思って。
ちなみに、私は栗は好きじゃない。

おばあちゃんは(たぶん無愛想だろうという私の予想を裏切って)にこにこして「アイゴ、カムサヘヨ〜(まあありがとう)」と栗を一袋差し出した。5000ウォン(約500円)だった。

「寒くないですか?」と聞くと、
「ケンチャナヨ〜(大丈夫だよ)」とにこやかにいう。そして、
「わたしゃここで20年座ってるよ!」と胸を張った。

20年!
その時間の幅というものを考えてみた。

私がちょうど大学に入って、サボったり悩んだり恋したりして、社会とか世界とかいうものに出て、また青臭く悩んだり闘ったり出会ったり別れたりしてた、そのころから、
彼女はほぼ毎日、ここに座っていたのかな。
どんなソウルの風景を、どんなソウルの変化を見てきたのだろうか。

その一つひとつ、でなくとも、彼女の記憶に残っているものだけでいいから、紡ぎ出せば一つの物語が現れるだろうな。
彼女の見てきたものが、そのまま映像になるなら、そんなロードムービーを見てみたいと思った。

20年座っている彼女に、何かうまい言葉が思い浮かばず、どうも、といって剥き栗の袋を持って帰った。

栗を入れたビニール袋の内側に水滴が浮かんでいたので、ザルにあけて水気を飛ばした。君たちは腐らずに日本に行かねばならないからね、と栗に言い聞かせながら。



部屋にはもらったポインセチアがあって、ああ明日はクリスマスイブなんだな、と思った。

この栗がその後、どのように誰の胃袋に収まったか、そういえば私はしらない。


2015/01/08

いつまで日本語。

私はことばが好きだ。
読むことも、書くことも好きなほうだ。
伝える・伝えてもらう手段、つまり表現の手段はいろいろあるけれど
ある人は写真で、ある人は音楽で、ある人は踊りで伝えようとするならば、私はことばという手段を自然と選んでいるのだろう。
…たぶん、一番お金がかからずモノが要らないから、そうなったんだと思う。

そして私のことばのベースとなるのは日本語。
日本語で書く、というのは、単なる表記言語としてではなく
日本語的に思ったり、感じたり、考えたりしている、ということだ。
陶芸にたとえるなら、私の場合、形作った器に日本語という釉薬を塗って完成させているのではなく、
日本語の粘土をこねくり回して、なんとか器の形に仕上げている、という感じだ。

韓国語で文章を書くとしたら、
日本語の粘土でつくった器に韓国語の釉薬を塗って仕上げようとしてしまう。
まだ、そういう段階だ。…と言うべきなのかなんなのか。

そんなわけで、
いまだに韓国語で文章を書くのは苦手だ。
(まあ、言い訳なんですけどね)
もっともっと、韓国語をたくさん読んで、書いて、頭をひたひたにすれば、いつか「韓国語的に」思ったり感じたり、するようになるのかも知れない。
場合に応じて、「思考の言語」のチャンネルを切りかえることができれば、ものの見方・考え方はもっと豊かになるかも知れない。
そこに至るには、もちろん努力が必要なのだろうけれど、
川をぴょんと飛び越えて、向こう岸に渡るような、思い切りが必要なような気がする。なんとなく。

それとも、思考の言語というのは基本的には変わらないんだろうか。
私はいつまで日本語ベースなのかなあ。

日本語で感じたことを、日本語で伝えるのだって、だいたい上手くできないことの方が多いけどね。






2015/01/05

「帰る」。

クリスマスの頃の東京は、手袋をはめなくても手がかじかむことがなかった。
ソウルと東京はずいぶんと気温差があると思った。
その気温差のせいか、いつもよりも少し遠くに感じた。距離的にも。

年末から年始にかけて、里帰りで東京。
里帰りで東京ってなんだかおかしくないかい。なんとなく。
でもやっぱりどうやったって私のふるさとは東京。
見慣れた都市の光を見てどこかほっとしつつ、
トウキョウはなんでもあってなんにもない、といつものことを考えた。

10日間を実家で過ごした。
そういえば実家で大晦日から正月を迎えるのは4年ぶり。
出戻り娘のような気分だ。嫁に出たことはないけど。

「この正月休みは特に予定は入れてない」と口癖のように言いつつも、
気づけば毎日なんだかんだと出歩いていた。
時間はたっぷりあった。なのに何故かいつも、何かを早く済ませなきゃ、という気分に追われた。
がっつり集中してやるべきことを数日で処理し、残りの時間をのんびり過ごす、という能力が決定的に欠けている。わたしには。
本気でのんびりするためには、全力疾走した時間が必要なのだきっと。

いつも年末年始は、ものごとを畳んで片付け、堂々と休み、そして新しく始める、ということができるので大好きなひとときだったのに、
今回はどうもぱっと切りかえができない。
のっぺりとした時間がまとわりついていて、考えることはバラバラに、それぞれカラカラ空回りし、
1年を振りかえることも、これからの1年を思い描くことも、おっくうになってしまった。

いっそ今年の始まりは1月5日からということにしましょう。と勝手に決めた。

そんな気分を抱えたまんま、ソウルへ戻る。
東京を離れるときはいつもちょっとだけさみしいような気分になる。
いまだに。

いつか、自然と「帰る」場所は、どこかに、変わっていくのだろうか。

飛行機に乗り込み、離陸するとすぐに睡魔がやってくる。
一瞬すうっと吸い込まれるように眠って、目を覚ますと、
窓の外で背の高いあいつが、しれっと姿を現していた。



このさんかく坊主が、日本という国の精神的象徴であろうとなかろうと 関係なく、
ただ神々しいばかりに美しかった。
こんな光景を見せつけられてしまっては、
私の頭でこねくりまわしている「場所」のようなものは、みじめにちっぽけな考えだと思わざるを得なかった。

あと2時間後、仁川空港に着いたところから、ちゃんと始めなければ。ちゃんと。

と、思いながら、とろとろもう少しだけまどろむ。





2014/12/04

キムチづくりと女たち。

バスを乗り継いで、わざわざキムチを漬けに行く。
晩秋のおだやかな日曜日のこと。

11月はキムジャンのシーズンだ。
キムジャンとは、家族親類やご近所さんなどみんなで大量のキムチを漬けることで、
気温が5度前後の秋のおわりに、大勢でたくさんのキムチを漬けて、分け合う。

まあ、私にゃ関係ないわ、と思っていたら。
ある偉大なおばちゃまに「今度の日曜、ウチの仲間たちでキムジャンをやるから、来なさい。」とさっくり捕まった。

キムジャン会場である公民館のような建物につくと、前庭でさっそく何かを炊いている香ばしい匂いがしてくる。昼休みにキムチと一緒に食べる豚肉のかたまりを茹でているのだった。
新参者である私は、着くなり「玉ねぎの皮をむいてー」と言われたので、段ボール一箱の玉ねぎ皮むきに取りかかった。黙々とむく。
むきながら、にぎやかな女性たちの会話に耳を傾けた。

「今日は何種類漬けるの?」と聞く女性に、貫禄のある女性が答える。
「二種類だよ。南のと、北のとね。今回は中国式はナシ。」



ここにいる女性たちは、南つまり韓国の女性だけでなく、
北朝鮮から来た女性、あるいは中国朝鮮族の女性たち。
さまざまな背景をもつコリアン女性たちが集う場をつくる、そういう活動をする団体のひとつのイベントとしてのキムジャンなのだ。

地域によって、キムチを漬け込む材料(ヤンヨン)は違う。
北では、生の鱈を塩と唐辛子に漬け込んだものをヤンヨンに使うらしい。
アミの塩辛を主に使う南のキムチよりもこっくりしている。



せっかくなら中国朝鮮族のキムチも試したかったけど、「もう作り方を忘れちゃったよ」と、中国・延辺出身の女性は冗談まじりに笑って言った。

延辺の朝鮮族の女性が、「うちの姑さんは北朝鮮から来た人だったよ。キムチから食器まで、こだわりの強い人でそりゃー大変だったよ」と言い、
北出身の人が、「うちでは毎年白菜200株は漬けてたわ」と言う。
北出身の人に「こちらに来て何年ですか」とそっと聞くと、「7年」とのこと。
逆に、私はどこから来たのかと聞かれたので「東京」と答えると、
「日本の同胞は、苦労したね」
と静かな顔で言われた。

大量の大根を千切りし、大量の唐辛子のヤンヨンをかきまぜ、大量の塩漬け白菜が積まれていく。


その間、女たちは休むことなく動く。手も口も。口はおしゃべりとつまみ食いと。
あらためて、女の働きかたってすごいな、と思う。誰もが、言われなくてもどこで何をすべきか分かっている。手が空けば、自分で適所に行って無駄なく役割を果たす。
司令塔はなく(まあ、ドンみたいなおばちゃんはいたけど)、全員が即戦力。
そして、女たちと一緒にしごとをすると、お腹をすかせることがほとんどない。欠かさず、充分な間食が用意されているのだ。これ、どの世界でも共通な気がする。

キムチ作りって、脈々とつながっている言語のようなものだ、と思った。

そして、キムチ作りは、女たちが共有する哀歌のようなものだ、とも思う。

嫁、妻、母、…という女。キムチを漬ける文化圏で、自分自身の人生を謳歌できたと言える女たちが、どれくらいいただろうか。何粒の涙を飲んで生きてきたのだろうか。
キムジャンは、楽しくほのぼのしたイベントってわけではない。寒い中、冷たい水に手をつけ、何キロもの白菜を運ぶ。うんざりする思い出が多いそうだ。
一番嬉しかったのは、キムジャンから解放されたこと。そう言った女性もいた。
でも、現場となれば、真っ赤なキムチを漬け込むまで、自然と身体が動く。
気づけば思わず口ずさんでいる、哀愁を帯びた歌みたいなものだ。




そんなこんなで。

予定があって最後までいられず、先に帰ろうとすると、
「とにかくこれを食っていけ」と一人分のごはんを用意してくださった。
漬けたてキムチと白菜で茹で豚をまいて食べる「ポッサム」。



立ったままむしゃむしゃ食らった。くうう、旨すぎる。
みなさん、先にいただいてすみません!

持って帰ったキムチが、いま我が家の冷蔵庫で存在感のある香りを立てている。





2014/11/21

船旅の思い出。

10月31日から11月9日まで、
ピースボートの日韓クルーズ Peace & Green Boatに乗っていた。
(船旅のようすはこちらを参照すると良いかと↓)
【Peace & Green Boat 2014 クルーズレポート】



今は外部者ではあるけど、今回はサポートスタッフとして参加させてもらった。
現役の頃はこの”日韓クルーズ"の第1回〜4回まで、がっつり企画・運営担当者だったので、どうしても思い入れが強い。(現役スタッフの頃は大変すぎて意識朦朧としていたけど)

10日間の船旅は、一言で言ったら「楽しかった!」で、
あれもこれもいろんな出来事がわーっと押し寄せてきて、なかなか整理がつかない。
で、たいてい整理のつかないまま記憶を引き出しに押し込んでおくのだけど。
まとまらないなりに、箇条書き程度になるけどポツポツと残しておこうと思う。

——船内。
船に乗ると「ただいまー」という感じがする。
自分が退職した後、船が新しく変わって、今の船はそんなに馴染みのあるわけではないけれど。現役の元同僚達があまりにも変わらず「よっ。」みたいな感じで迎えてくれるのと、船が変わっても継続して乗っている顔なじみのレストランやバーのクルーが「あれ、久しぶり—」と応対してくれるのが、嬉しい。
そして一気に身体が「船時間」になる。朝のミーティングから深夜に部屋に戻るまで出ずっぱり、あっという間にすぎる日々(大体、毎日は船上居酒屋「波へい」で締めくくられる)。
船内生活で運動不足を気にする人には、下の階のキャビンに泊まること、そしてしょっちゅう部屋に忘れ物をすることをお勧めしたい。一日何度、4階の部屋と8階のフリースペースを往復したことか。粗忽者はむだにたくさん動くのだ。

——寄港地:済州島、沖縄。
済州島では、海軍基地建設予定地のカンジョン村、沖縄では普天間基地、嘉手納基地を訪れるツアーの引率に入った。
正直、カンジョン村に行くことに戸惑いがあった。海軍基地建設が、激しい反対運動にも関わらずもう強引に進められているのを知っていつつ、そして反対のために友だちがカンジョンに向かっていったの知っていたのに、自分は、何もできていなかったから。
2年前に訪れたときに連なっていた基地反対のテントは撤去され、イベントを行った岩場は半分以上フェンスに覆われていた。
工事の大型トラックが行き来するゲート前で、基地を反対する人々がミサを行って祈祷し、黙って座り込んで車を防ぎ、歌ったり踊ったりする元気なパフォーマンスを見せる。でも、残念ながら、その数は多いとは言えない。
ブルドーザーが、その地域に住む人間も、家も、海岸の岩も、むちゃくちゃにつぶして押しのけていくようなシーンが思い浮かぶ。それは、沖縄にもあるシーンだし、原発の建設を余儀なくされた町にもあるシーンだ。
その町の痛み——受け入れることを断固拒む人、受け入れざるを得なかった人、どちらも——に無頓着な外部の人間が、一体どの面を下げてここに居ればよいのかわからない。
ただただ、私たちはあなた達を踏みつけている、足の下の感触を知りながら知らないふりをして踏み続けている、そのことがひたすらに恥ずかしい。という思いがずっと残っていた。済州島と沖縄。

——船内企画。
たくさんの印象深い講座、ワークショップ、コンサートが盛りだくさんだったけど、
どうしても、一番心にずしんと来たと言わざるを得ないのが「在日コリアン企画」だ。
(自分が日韓クルーズで在日コリアン企画にこだわるのには理由があって、
 「日韓=日本と韓国」という二つの枠組み(マジョリティ)が強調される中で、
  在日コリアンだけでなく、他の国出身者やダブル、もっと幅広い意味でのマイノリティの存在に目が向かなくなりがちで、それが社会の縮図だと思うからだ。
  そして、自分が現役担当だったときに、まさにマジョリティの側に立ってしまい、マイノリティの存在にちゃんと向き合わなかったという恥ずかしい反省があるからだ。)
今回は、ある日本国籍の在日コリアン3世の青年に、自分の父母(2世)、祖父母(1世)の話を語ってもらう企画とした。一言では言いつくせない、リアル「血と骨」のような、1世、2世の生々しい生き様の話だった。
打ち合わせの段階で、泣いて泣いて頭が痛くなるくらい涙が出た。こういう話を初めてきくわけじゃない、どころか、嫌というほど聞いて育ってきたのに、自分で何故泣いているのかわからなかった。言うなれば、自分が今「在日コリアン」を語って躊躇なく生活できているのは、在日コリアンである出自を隠して必死で生きてきた人たちを、何かで覆い被せて見ないようにしてきたからではないか、という気がしたのだ。
ともかく重かった。でも、たくさん笑った。そんな話をしてくれたYに感謝だ。

——いい出会い。
ゲスト講師として乗船した下さった「水先案内人」の面々と、夜な夜な居酒屋で飲み、
飲みながら、または打ち合わせで(ふつう逆か…)、とても深い話を聞けた。
こんなに面白い話を、授業でもなくセミナーでもなく、こんなにラフに向かい合っていつでも質問を交えながら、聞ける。
この特殊な学びの空間は、現役スタッフから離れてみて、改めてしみじみわかった。どれだけ贅沢な勉強かということが。

お客さんの中には、リピーターと呼ぶ過去乗船者もかなりいた。
10年前の船旅でご一緒しましたね、とか声をかけて下さる方がざらにいて、ありがたいし嬉しいし、名前を全然覚えていなくて恐縮しきり。
その中に、Fさんという、それこそ10年以上前からこつこつとボランティアスタッフをしつつ何度か乗船された方がいた。物静かでとても平和思考なFさんを印象的に覚えていたのだが、沖縄のツアーで一緒になった。当たり前だけど、自分の記憶よりずっとお年を重ねられていて、杖でゆっくり歩いていた。
普天間基地でのディスカッションで、Fさんは「戦中生まれとして申し上げます」と言って、自分の世代がちゃんと過去を語り継いでこなかったという反省を語った。その凜とした姿勢に、またちょっと涙が出てしまった。
いつまでも、健康で長生きして、また船に乗ってほしいと心から思った。

他にも、書き切れないほどたくさんの出会いがあった。気の置けない仲間や愛する人との再会、ずっと年下だけど親しげに話してくれた新しい友だち、話してみたら「住んでる町が一緒」だった韓国の人たち、日本在住日系ブラジル人の10代、20代の友人。
出会いざんまいだ。で、改めて気がついてしまう。私はやっぱり、いろんな人と一緒にわいわいやる仕事が、好きだ。

熱に浮かされたような、短いクルーズを終えてソウルに帰ってきてみればまた「事務局ひとり」である。でも、なんとなく前ほど寂しくない。なんだかたくさん種をもらって帰ってこれたような気がする。
この種をソウルで蒔いて、自分で育てなきゃならない。
これまでさんざん人に助けられ支えられてやってきたことを思い知らされ、今になって「自分でがんばんなきゃ」と肩に力を入れる必要などないんだな、とやっと思える。
大切なものを、思い出させてもらった。

大きな船はまた次の船出に華々しく出航し、私のちいさなボートもまた、ささやかにこぎ出しはじめる。











2014/10/23

バスを制せよ。

もう、毎日利用しているのに、乗るたびに毎回思う、おなじこと。
韓国の、とくにソウルのバスは、
ソウルのせっかちさ(いわゆる”パルリパルリ(早く早く)文化”)の象徴ではないかと思う。

まず、乗るときに、バス停の「乗り場」でぼーっと待っていてはいけない。
大きめの停留所なら、道路の真ん中の長いバス停にひっきりなしにいろんな番号のバスが着いて、2,3台はいつも連なっている。
後ろの方のバスは、バス停のおしりの方に着いた瞬間ドアを開けるので、乗る人はダッシュで目当てのバスまで乗りにいかねばならない。
最初は、なんで人々がバス停の後ろのほうに走っていくのかわからず、先頭で待っていたら、目の前でぴゅーっとバスが行ってしまうこともしばしばあった。

乗ったら乗ったで、ドアが閉まるか閉まらぬかの内に発車するので、
もたもたとTカード(交通カード)を取り出していてはいけない。
大体、最近はカードを携帯カバーにしこんでいる人が多いので、いつでもどこでも手に持っている携帯でピッとやって、そのまま乗り込みながら携帯で話しはじめる。よくある光景。

降りるときには、
降りる一つ前の停留所をすぎた瞬間、降りますボタンを押している。「次は〜●●前です」というアナウンスが入るより前に必ず押す。
そして停車するずっと前に席を立つ。そうとう荒っぽい運転の中、よたよたしながら降車口付近に立つのである。降車口でTカードをピッとかざすのもがんがん走行中に済ませる。
でないと、降りるのが間に合わない(ような気にさせられる)からだ。
バスは、停留所が目の前に迫るまで速度を落とさない。そしてああっ、通りすぎてしまう!もしくは前のバスにぶつかる!と思う直前に、キキーっと急停車する。チキンレースのように。
そして完全に停車する直前に降車口が開くので、乗客たちはもうそのブレーキの勢いで転がり落ちますよ、といった感じで降りる。
なので、停車してから席を立ち、カードを出して、ピッとやって、降りる。などという行動が間に合わないのだ。

このバスの荒さとせっかちさはどうも好きじゃないのだが。
バスは、路線がわかればソウルのどこへでも便利に行けるので、市内の欠かせない足となる。
それで、乗りこなしているうちに何だかこの乗り方が染みついてしまったらしい。

先月、日本に行った際に久々にバスに乗ったら、発車のなめらかさ、停車のゆっくりさ、きちんと止まってから降りるゆとりにちょっと感動した。
しかし一緒に乗っていた妹に笑われた。
「ちょっと、構えすぎ構えすぎ。」
無意識に、わたしは降りるバス停のだいぶ前から、カードをにぎりしめ、荷物を肩にかけ中腰になって、スタンバイオッケーの姿勢になっていたらしい。
習慣ってこわい。

とにかく、
ソウルを制すにはバスを制せよ。
そして、揺れるバスの中で足腰を鍛えよ。