2015/04/10

冷たい4月。

桜が咲いたが、花冷えの一週間だった。

霞むような青空がようやく見え、厚手のコートを置いて出かけられるようになる頃、
週末はどこへ遊びに行こうか、ワクワクする気持ちに、いつもブレーキがかかる。

もうすぐ4月16日。

4月に入り、「セウォル号」に関する話題が再び巷をとりまいている。
ニュースで特集が組まれる。追悼の催しが開かれる。
そして私はそこに反応している自分に何か罪悪感のようなものを感じている。

去年の4月、この事件はものすごくショックだった。ものすごい無力感に襲われた。
何かとっかかりを探して、追悼場にも行った。事件の真相究明と特別法をもとめる集会やデモにも行った。キャンドルを灯し、遺族の叫びに涙した。
でも秋を過ぎるころから、私の生活から「セウォル号」に関わる情報はどんどん薄れていった。カバンにつけていた黄色いリボンのバッジは、いつの間にか取れてしまっていたがそのままにしていた。

この一年、セウォル号の事件は何一つ終わっていないし変わっていない。
なぜ309名もの犠牲者を救助することができなかったのか、その責任はどこにあるのか、
そこを明らかにする特別調査委員会と、調査をもとにした特別法を作ってくれ。
たったこれだけが、遺族をはじめとする人々が、−−何日もの座り込みや生命の危機に至るほどの断食を行って−−訴えつづけていたこと。
大統領に直訴するため青瓦台に向かった行進は何度も押さえつけられた。
遺族の行動に対して「左翼、アカ」「補償金引き上げのため」「特定地域の利益のため」などというバッシングが出回った。
紆余曲折の後つくられた特別調査委員会は、事故1周期を迎える今になっても、何一つしごとをしていない。

セウォル号の沈没は、現在の韓国社会のひずみの象徴。
そんな言葉は使われすぎてボロボロになるほど使われた。
今日の新聞にこんな寄稿があった。
「私たちはセウォル号の惨事を通じて、この社会が、私たちの生活が、どれほど脆弱な土台の上にあり、どれほど無能で無責任で信頼できない政府の手に任されているのかを実感することとなった。この惨事で総体的な破局の兆しを経験した私たちの生とは一体何なのか、国家とは何か、問うようになった。」(京郷新聞.2015.04.10 小説家ヒョン・ギヨン寄稿)
国家は人を守らない。
それは、韓国社会に限ったことではないと、私はその考えを強くする。

いまも冷たい海の底ある船体と一緒に、韓国社会は沈没し続けている。
そんな中で、私はそれなりに良くも悪くもない一年をのうのうと生きてきた。
4月だからと今更沈鬱な表情で悼むことに、だから引け目を感じる。でも、だからといって流してしまうよりは思い出す方がいい。何度でも何年たっても。

3.11大地震後の福島原発事故と、セウォル号事故。この二つはまったく同じではないけれど、ひと連なりの惨事として自分のなかに刻まれている。
だからセウォル号を思うとき、福島を考える。
桜が蕾をつけそして散り始めるまでの季節を、痛みとともに迎える。







2015/04/07

職場から見る風景。

午後、
一息つこうと、廊下のつきあたりにある小さいベランダに出た。
昨日久しぶりの大雨が降って空気は澄んでいたが、雨雲がまったりと広がって、グレーな風景。
職場である大学の、すぐ裏の風景だ。


すぐ手前に、古い昔風の家があり(小さい中庭を囲んでぐるりと居住スペースのある韓屋タイプ)、
はるか向こうに、北漢山の堂々とした山脈が見える。
そして、その間を遮る、アパートの工事現場。

ちなみに韓国では「アパート」とは最低5階建て以上の居住建築のことで、大抵は十数階以上の、日本でいうところの「マンション」を呼ぶ。
わたしは「日本では2階建ての木造アパートに住んでいて…」と慎ましく言ったところ、「それをアパートとは言わない」と笑われた。

話は戻って。
この辺は古い住宅地だけれども、隙間すきまに新しいアパートがどんどん出来て、モザイクのように新旧の住宅がごちゃごちゃ混ざり合っている。
よく見ると、新しいアパートは大抵、色違いのレンガ風外装の似たようなデザインなので、同じ建設業者なのだろうかと思う。

毎日毎日、工事のためにギュイーン…と歯を削るような不快な音が響いている。
その不快さのせいで、工事の風景は私にはみにくいもののように映っていた。
ぼーっと眺めていたら、真ん中の茶色い建物のあいだに、人影が見えた。
よーく目をこらしてみると、組んだ足場の上で、普段着のような格好の男性が、外壁に茶色いレンガ風タイルを一枚一枚貼っていた。

(写真をとった瞬間は、人影はちょうど奥の方に入ってしまった)

なんか、ちいさなショック。
あんな大きな音を響かせて、ばかでかい穴ほったりコンクリートを流し込んだりしてたけど、
壁のタイル一枚一枚は、職人さんが手で貼っているのか。

当たり前っちゃ当たり前の話だけど。
どんなに大きなものも、人の手がつくっているんだなあ。
と、小学生の観察日記並の感想。

古い町並みを壊して、「開発」のもとに効率的で均一で大型な建物を作る”大きな手”には、
顔がないなと思う。
現場で、タイルを貼っているあの人はどんな家に住んでいるのだろうか。などと考えてみた。

韓国では最近、家賃の急騰と分譲アパート開発+ローン金利引き下げ政策で、
住居困難者が急増するだろうというグレーなニュースが流れています。



2015/03/31

三度目の春。

やっと暖かくなってきた。

ソウルではいつから「冬」だったかと思い返せば、
去年11月半ばくらいに初めて気温がマイナスになったと記憶している(11月の全国統一受験日は毎年必ず気温がぐっと下がって、「受験寒波」という言葉があるくらい)。
ということは、4ヶ月半くらい冬だった、ということになる。じっさい長い冬だった。

ほころんだ梅や木蓮の白、ケナリ(レンギョウ)の黄色が目に飛び込んでくると、
おお、久しぶり!待っていたよ!という気分になる。
2年前、留学のためにソウルに来たばかりの頃、寮の部屋から見える裏山は茶色くくすんでいた。
山の木々に花が咲き始めたころ、クラスメートのインドネシアの友人が、
韓国の木には花が咲かないと思ってた! 
と、喜んでいたことを、何となく思い出した。
花が咲かないわけないだろう〜と笑ったけど、南アジアの人がそう思うのも無理ないくらい、韓国の冬は冷たく無愛想だった。

韓国で三度目の春。
「さんどめのはる〜」って何かの歌の歌詞にあったよなあと考えたが思い出せない。

3月は締めの季節、4月は始まりの季節。
って、日本ではそういうイメージがしっかり刷り込まれていたけれど、
韓国では、学校が始まるのは3月からで、大学などではオリエンテーションが2月末から始まっていたりするので、「4月始まり」というのが全くしっくり来ない。
職場が大学なので、もう既に通常授業がはじまって一月以上たっているのを見ている私としては、いまFacebookで日本の卒業式のようすを見て奇妙な時差を感じたりしている。

しかし長い間住んでいた地での季節と慣習の感覚は、なかなか抜けないようで、
やっぱり、3月になにか一区切りをつけ、4月から新たに始めようという気分になる。

さて。
なにを新たに始めようか。

とりあえず今年のささやかな目標は「山に登る」ということで、山の麓に住んでいるソウル人らしく、初心者ハイキングコースから初めてみようかなーと思う。そんな春。

(写真はソウルじゃないけれど。^^;;)





2015/03/07

「韓国の年齢でいえば」。

韓国では年齢を数え年で表すので、慣れるまで非常にややこしかった。
生まれた時が、1歳。そして年齢が増えるのは誕生日ではなく新しい年に変わったとき。
なので、12月生まれだと、うまれた翌月には2歳なわけだ。(だからか、1~2歳までは年ではなく月齢で言うことのほうが多いかも)

年齢を聞いたときに自分より2歳上だと認識した人が、じつは同い年だった。なんてこともよくある。面倒なので、年齢を聞かれたら生まれた年で言うようにしている。
もしくは、「韓国の年齢で言えば(한국 나이로 말하면)...」と前置きして、数え年で言う。

まあ、1歳や2歳どうでもいいことかもしれませんが…どうでもよくないのが韓国社会で。
初対面でも、年齢をがんがん聞かれる。なんなら、名前の次には歳を聞かれる。
なぜなら、年上か年下かで呼び方(オンニ・ヌナ(姉さん)、オッパ・ヒョン(兄さん)をつけるかどうか)や、敬語を使うか否かが変わるから。
日本だと「失礼ですか…」と恐る恐る歳を聞いたりするけど、こちらではむしろ礼儀のために歳を聞くのかもしれない。良いか悪いかは別として。

新年を迎えると一律で1歳年をとる、というのは、やだなあと思っていたけれど、
案外、「誕生日が来たらプラス1歳」という考え方のほうが、狭小かもしれない。
なぜなら、誕生日の日にちというものも、曖昧なものだから。

先日、韓国の友人に誕生日を聞いたら、
「今年は1月21日…くらい。」という。
なんなんだその曖昧さは!と笑っていたら、友人いわく「旧暦で覚えているから、毎年誕生日はカレンダーを見ないとわからない」と。
そうなの?!びっくり!(ちなみに、現在30~40代以下の世代でほとんどは誕生日は新暦だそうだけど。友人は40代前半)
そういえば、昔、在日スーダン人の友だちに誕生日を聞いたら「しらない。覚えてない」とあっさり言っていた。自分の誕生日を知らないなんて!と驚愕したけれど、彼にとっては「それが何か?」という感覚だったみたい。(それで、友人たちとで勝手に出会った日を誕生日に決めて、誕生日パーティーをした覚えがある)
大学院でバングラデシュ人の級友は、登録上は12月31日が誕生日だったけれど、「本当は4月に生まれたんだ」というので、4月に誕生日を祝ってあげた。

そう思うと、(陽暦の)誕生日にきっちり年をとる、なんてことはない。
年の重ね方は人それぞれだ。私たちは曖昧に成長して老いていく。何歳、という数は、じつは任意なのだ。

と、言いつつも。
いくつになっても誕生日を楽しみにしている私である。

去年くらいから自分で「だいたい40歳」と称してきたので、すっかり私は四十路。と思ってしまっていたけれど。そういえば昨日まで38歳だったのか!(どこへ行ってたんだ、この2歳は…)
本日をもって満39。「韓国の年齢で」ちゃんと四十路でございます。
いまだに青臭く悩み惑い続けている今日この頃。
「不惑」の域にはほど遠し。




2015/02/28

引っ越し一周年。

うかうかしていたら、2月がするっと過ぎてしまった。
(いっつもこんな入りだな、最近…)

そういえば今日は、引っ越し一周年なのであった。
去年2月、ソウルに着いて、3日で探して決めたフルオプションワンルームの部屋。
 (当時のことを日記に書いていた)
 

ちっちゃいけど、冷蔵庫・洗濯機・エアコンつきだったし、なにより新築で小綺麗で収納がけっこうあるところが気に入った。今でもまあ不自由ない。…ひとりならば。

ここへ来たちょうど一年前は、
とにかく論文を終わらせるまでの一時宿のような気持ちもあったし、
論文を終えた後に控えていたシゴトのことは、まあ始まってみればなんしかなる、としか考えられていなかった。

引っ越し当日の荷物は、自分で運べる大きさの段ボール5個とスーツケースだけだった。

もともと物をあまり持たないタチだけど、来る前に思い切っていろいろ処分したんだった。
身軽だった。すっからかんで、気楽で、寂しかった。

いま、部屋を見回すと、それなりに物が増えたなあと思うのと、
一年たってもまだこんなにスカスカ?と思うのと、同時にある。
装飾(あそび)の少ない、簡単な部屋。
それはそのまま、私のソウル生活のスタンスに似ていると思う。
浅く腰をかけたまま、いつでも立てるタイミングを伺っているような。

いつもぐずぐず迷いを抱えたまま、もうちょっとここで住んでみるのだろうな。

まあ、そもそも契約あと一年残ってるしなあ。





2015/01/27

石の上にも20年。

駅近くの交差点の角で、いつも座って何かを売っているおばあちゃんがいる。

春も夏も秋も、同じ場所に座って、なにかせっせと手作業しながら売っている。
にんにくを剥いていたり、栗を剥いていたりする。

彼女は私がよく利用するスーパーのすぐ目の前に陣取っているので、あ、おばあちゃんがいる、と気づくのはいつも買い物を済ませて出てきた後だ。

夏はこんな風に、大変ラフな感じで作業および販売をしている。まるで自宅の台所のすみのように。



真冬、日中もマイナス気温になるこの辺りは、アスファルトの路上は凍てつく寒さだ。
そんな中、彼女は冬仕様でやっぱり同じ場所に陣取っている。

ある日、ん?ドラえもん?ってくらいまんまるになって座っている彼女に気づいた。




今までずっと、気づいてもスルーしてきたので、いつも通り交差点を渡りかけて、
なぜかこの日は、思い立ってUターンした。
その日は12月23日で、私は明日東京の実家に帰るぞという日で。
なんとなく、その、大きな理由はないけれど、何か声をかけたくなったのだ。

その日彼女が売っていたのは、剥いた栗と、ピーナッツと、もやしだった。

栗を下さい、と声をかけた。実家へのお土産に、栗ご飯にでもして食べてもらおうと思って。
ちなみに、私は栗は好きじゃない。

おばあちゃんは(たぶん無愛想だろうという私の予想を裏切って)にこにこして「アイゴ、カムサヘヨ〜(まあありがとう)」と栗を一袋差し出した。5000ウォン(約500円)だった。

「寒くないですか?」と聞くと、
「ケンチャナヨ〜(大丈夫だよ)」とにこやかにいう。そして、
「わたしゃここで20年座ってるよ!」と胸を張った。

20年!
その時間の幅というものを考えてみた。

私がちょうど大学に入って、サボったり悩んだり恋したりして、社会とか世界とかいうものに出て、また青臭く悩んだり闘ったり出会ったり別れたりしてた、そのころから、
彼女はほぼ毎日、ここに座っていたのかな。
どんなソウルの風景を、どんなソウルの変化を見てきたのだろうか。

その一つひとつ、でなくとも、彼女の記憶に残っているものだけでいいから、紡ぎ出せば一つの物語が現れるだろうな。
彼女の見てきたものが、そのまま映像になるなら、そんなロードムービーを見てみたいと思った。

20年座っている彼女に、何かうまい言葉が思い浮かばず、どうも、といって剥き栗の袋を持って帰った。

栗を入れたビニール袋の内側に水滴が浮かんでいたので、ザルにあけて水気を飛ばした。君たちは腐らずに日本に行かねばならないからね、と栗に言い聞かせながら。



部屋にはもらったポインセチアがあって、ああ明日はクリスマスイブなんだな、と思った。

この栗がその後、どのように誰の胃袋に収まったか、そういえば私はしらない。


2015/01/08

いつまで日本語。

私はことばが好きだ。
読むことも、書くことも好きなほうだ。
伝える・伝えてもらう手段、つまり表現の手段はいろいろあるけれど
ある人は写真で、ある人は音楽で、ある人は踊りで伝えようとするならば、私はことばという手段を自然と選んでいるのだろう。
…たぶん、一番お金がかからずモノが要らないから、そうなったんだと思う。

そして私のことばのベースとなるのは日本語。
日本語で書く、というのは、単なる表記言語としてではなく
日本語的に思ったり、感じたり、考えたりしている、ということだ。
陶芸にたとえるなら、私の場合、形作った器に日本語という釉薬を塗って完成させているのではなく、
日本語の粘土をこねくり回して、なんとか器の形に仕上げている、という感じだ。

韓国語で文章を書くとしたら、
日本語の粘土でつくった器に韓国語の釉薬を塗って仕上げようとしてしまう。
まだ、そういう段階だ。…と言うべきなのかなんなのか。

そんなわけで、
いまだに韓国語で文章を書くのは苦手だ。
(まあ、言い訳なんですけどね)
もっともっと、韓国語をたくさん読んで、書いて、頭をひたひたにすれば、いつか「韓国語的に」思ったり感じたり、するようになるのかも知れない。
場合に応じて、「思考の言語」のチャンネルを切りかえることができれば、ものの見方・考え方はもっと豊かになるかも知れない。
そこに至るには、もちろん努力が必要なのだろうけれど、
川をぴょんと飛び越えて、向こう岸に渡るような、思い切りが必要なような気がする。なんとなく。

それとも、思考の言語というのは基本的には変わらないんだろうか。
私はいつまで日本語ベースなのかなあ。

日本語で感じたことを、日本語で伝えるのだって、だいたい上手くできないことの方が多いけどね。