2014/11/21

船旅の思い出。

10月31日から11月9日まで、
ピースボートの日韓クルーズ Peace & Green Boatに乗っていた。
(船旅のようすはこちらを参照すると良いかと↓)
【Peace & Green Boat 2014 クルーズレポート】



今は外部者ではあるけど、今回はサポートスタッフとして参加させてもらった。
現役の頃はこの”日韓クルーズ"の第1回〜4回まで、がっつり企画・運営担当者だったので、どうしても思い入れが強い。(現役スタッフの頃は大変すぎて意識朦朧としていたけど)

10日間の船旅は、一言で言ったら「楽しかった!」で、
あれもこれもいろんな出来事がわーっと押し寄せてきて、なかなか整理がつかない。
で、たいてい整理のつかないまま記憶を引き出しに押し込んでおくのだけど。
まとまらないなりに、箇条書き程度になるけどポツポツと残しておこうと思う。

——船内。
船に乗ると「ただいまー」という感じがする。
自分が退職した後、船が新しく変わって、今の船はそんなに馴染みのあるわけではないけれど。現役の元同僚達があまりにも変わらず「よっ。」みたいな感じで迎えてくれるのと、船が変わっても継続して乗っている顔なじみのレストランやバーのクルーが「あれ、久しぶり—」と応対してくれるのが、嬉しい。
そして一気に身体が「船時間」になる。朝のミーティングから深夜に部屋に戻るまで出ずっぱり、あっという間にすぎる日々(大体、毎日は船上居酒屋「波へい」で締めくくられる)。
船内生活で運動不足を気にする人には、下の階のキャビンに泊まること、そしてしょっちゅう部屋に忘れ物をすることをお勧めしたい。一日何度、4階の部屋と8階のフリースペースを往復したことか。粗忽者はむだにたくさん動くのだ。

——寄港地:済州島、沖縄。
済州島では、海軍基地建設予定地のカンジョン村、沖縄では普天間基地、嘉手納基地を訪れるツアーの引率に入った。
正直、カンジョン村に行くことに戸惑いがあった。海軍基地建設が、激しい反対運動にも関わらずもう強引に進められているのを知っていつつ、そして反対のために友だちがカンジョンに向かっていったの知っていたのに、自分は、何もできていなかったから。
2年前に訪れたときに連なっていた基地反対のテントは撤去され、イベントを行った岩場は半分以上フェンスに覆われていた。
工事の大型トラックが行き来するゲート前で、基地を反対する人々がミサを行って祈祷し、黙って座り込んで車を防ぎ、歌ったり踊ったりする元気なパフォーマンスを見せる。でも、残念ながら、その数は多いとは言えない。
ブルドーザーが、その地域に住む人間も、家も、海岸の岩も、むちゃくちゃにつぶして押しのけていくようなシーンが思い浮かぶ。それは、沖縄にもあるシーンだし、原発の建設を余儀なくされた町にもあるシーンだ。
その町の痛み——受け入れることを断固拒む人、受け入れざるを得なかった人、どちらも——に無頓着な外部の人間が、一体どの面を下げてここに居ればよいのかわからない。
ただただ、私たちはあなた達を踏みつけている、足の下の感触を知りながら知らないふりをして踏み続けている、そのことがひたすらに恥ずかしい。という思いがずっと残っていた。済州島と沖縄。

——船内企画。
たくさんの印象深い講座、ワークショップ、コンサートが盛りだくさんだったけど、
どうしても、一番心にずしんと来たと言わざるを得ないのが「在日コリアン企画」だ。
(自分が日韓クルーズで在日コリアン企画にこだわるのには理由があって、
 「日韓=日本と韓国」という二つの枠組み(マジョリティ)が強調される中で、
  在日コリアンだけでなく、他の国出身者やダブル、もっと幅広い意味でのマイノリティの存在に目が向かなくなりがちで、それが社会の縮図だと思うからだ。
  そして、自分が現役担当だったときに、まさにマジョリティの側に立ってしまい、マイノリティの存在にちゃんと向き合わなかったという恥ずかしい反省があるからだ。)
今回は、ある日本国籍の在日コリアン3世の青年に、自分の父母(2世)、祖父母(1世)の話を語ってもらう企画とした。一言では言いつくせない、リアル「血と骨」のような、1世、2世の生々しい生き様の話だった。
打ち合わせの段階で、泣いて泣いて頭が痛くなるくらい涙が出た。こういう話を初めてきくわけじゃない、どころか、嫌というほど聞いて育ってきたのに、自分で何故泣いているのかわからなかった。言うなれば、自分が今「在日コリアン」を語って躊躇なく生活できているのは、在日コリアンである出自を隠して必死で生きてきた人たちを、何かで覆い被せて見ないようにしてきたからではないか、という気がしたのだ。
ともかく重かった。でも、たくさん笑った。そんな話をしてくれたYに感謝だ。

——いい出会い。
ゲスト講師として乗船した下さった「水先案内人」の面々と、夜な夜な居酒屋で飲み、
飲みながら、または打ち合わせで(ふつう逆か…)、とても深い話を聞けた。
こんなに面白い話を、授業でもなくセミナーでもなく、こんなにラフに向かい合っていつでも質問を交えながら、聞ける。
この特殊な学びの空間は、現役スタッフから離れてみて、改めてしみじみわかった。どれだけ贅沢な勉強かということが。

お客さんの中には、リピーターと呼ぶ過去乗船者もかなりいた。
10年前の船旅でご一緒しましたね、とか声をかけて下さる方がざらにいて、ありがたいし嬉しいし、名前を全然覚えていなくて恐縮しきり。
その中に、Fさんという、それこそ10年以上前からこつこつとボランティアスタッフをしつつ何度か乗船された方がいた。物静かでとても平和思考なFさんを印象的に覚えていたのだが、沖縄のツアーで一緒になった。当たり前だけど、自分の記憶よりずっとお年を重ねられていて、杖でゆっくり歩いていた。
普天間基地でのディスカッションで、Fさんは「戦中生まれとして申し上げます」と言って、自分の世代がちゃんと過去を語り継いでこなかったという反省を語った。その凜とした姿勢に、またちょっと涙が出てしまった。
いつまでも、健康で長生きして、また船に乗ってほしいと心から思った。

他にも、書き切れないほどたくさんの出会いがあった。気の置けない仲間や愛する人との再会、ずっと年下だけど親しげに話してくれた新しい友だち、話してみたら「住んでる町が一緒」だった韓国の人たち、日本在住日系ブラジル人の10代、20代の友人。
出会いざんまいだ。で、改めて気がついてしまう。私はやっぱり、いろんな人と一緒にわいわいやる仕事が、好きだ。

熱に浮かされたような、短いクルーズを終えてソウルに帰ってきてみればまた「事務局ひとり」である。でも、なんとなく前ほど寂しくない。なんだかたくさん種をもらって帰ってこれたような気がする。
この種をソウルで蒔いて、自分で育てなきゃならない。
これまでさんざん人に助けられ支えられてやってきたことを思い知らされ、今になって「自分でがんばんなきゃ」と肩に力を入れる必要などないんだな、とやっと思える。
大切なものを、思い出させてもらった。

大きな船はまた次の船出に華々しく出航し、私のちいさなボートもまた、ささやかにこぎ出しはじめる。