2014/12/04

キムチづくりと女たち。

バスを乗り継いで、わざわざキムチを漬けに行く。
晩秋のおだやかな日曜日のこと。

11月はキムジャンのシーズンだ。
キムジャンとは、家族親類やご近所さんなどみんなで大量のキムチを漬けることで、
気温が5度前後の秋のおわりに、大勢でたくさんのキムチを漬けて、分け合う。

まあ、私にゃ関係ないわ、と思っていたら。
ある偉大なおばちゃまに「今度の日曜、ウチの仲間たちでキムジャンをやるから、来なさい。」とさっくり捕まった。

キムジャン会場である公民館のような建物につくと、前庭でさっそく何かを炊いている香ばしい匂いがしてくる。昼休みにキムチと一緒に食べる豚肉のかたまりを茹でているのだった。
新参者である私は、着くなり「玉ねぎの皮をむいてー」と言われたので、段ボール一箱の玉ねぎ皮むきに取りかかった。黙々とむく。
むきながら、にぎやかな女性たちの会話に耳を傾けた。

「今日は何種類漬けるの?」と聞く女性に、貫禄のある女性が答える。
「二種類だよ。南のと、北のとね。今回は中国式はナシ。」



ここにいる女性たちは、南つまり韓国の女性だけでなく、
北朝鮮から来た女性、あるいは中国朝鮮族の女性たち。
さまざまな背景をもつコリアン女性たちが集う場をつくる、そういう活動をする団体のひとつのイベントとしてのキムジャンなのだ。

地域によって、キムチを漬け込む材料(ヤンヨン)は違う。
北では、生の鱈を塩と唐辛子に漬け込んだものをヤンヨンに使うらしい。
アミの塩辛を主に使う南のキムチよりもこっくりしている。



せっかくなら中国朝鮮族のキムチも試したかったけど、「もう作り方を忘れちゃったよ」と、中国・延辺出身の女性は冗談まじりに笑って言った。

延辺の朝鮮族の女性が、「うちの姑さんは北朝鮮から来た人だったよ。キムチから食器まで、こだわりの強い人でそりゃー大変だったよ」と言い、
北出身の人が、「うちでは毎年白菜200株は漬けてたわ」と言う。
北出身の人に「こちらに来て何年ですか」とそっと聞くと、「7年」とのこと。
逆に、私はどこから来たのかと聞かれたので「東京」と答えると、
「日本の同胞は、苦労したね」
と静かな顔で言われた。

大量の大根を千切りし、大量の唐辛子のヤンヨンをかきまぜ、大量の塩漬け白菜が積まれていく。


その間、女たちは休むことなく動く。手も口も。口はおしゃべりとつまみ食いと。
あらためて、女の働きかたってすごいな、と思う。誰もが、言われなくてもどこで何をすべきか分かっている。手が空けば、自分で適所に行って無駄なく役割を果たす。
司令塔はなく(まあ、ドンみたいなおばちゃんはいたけど)、全員が即戦力。
そして、女たちと一緒にしごとをすると、お腹をすかせることがほとんどない。欠かさず、充分な間食が用意されているのだ。これ、どの世界でも共通な気がする。

キムチ作りって、脈々とつながっている言語のようなものだ、と思った。

そして、キムチ作りは、女たちが共有する哀歌のようなものだ、とも思う。

嫁、妻、母、…という女。キムチを漬ける文化圏で、自分自身の人生を謳歌できたと言える女たちが、どれくらいいただろうか。何粒の涙を飲んで生きてきたのだろうか。
キムジャンは、楽しくほのぼのしたイベントってわけではない。寒い中、冷たい水に手をつけ、何キロもの白菜を運ぶ。うんざりする思い出が多いそうだ。
一番嬉しかったのは、キムジャンから解放されたこと。そう言った女性もいた。
でも、現場となれば、真っ赤なキムチを漬け込むまで、自然と身体が動く。
気づけば思わず口ずさんでいる、哀愁を帯びた歌みたいなものだ。




そんなこんなで。

予定があって最後までいられず、先に帰ろうとすると、
「とにかくこれを食っていけ」と一人分のごはんを用意してくださった。
漬けたてキムチと白菜で茹で豚をまいて食べる「ポッサム」。



立ったままむしゃむしゃ食らった。くうう、旨すぎる。
みなさん、先にいただいてすみません!

持って帰ったキムチが、いま我が家の冷蔵庫で存在感のある香りを立てている。