2016/10/15

まっさらな10月。

空が高くなっていて、気がつけば10月なかばで、
あれだけ狂ったように暑かった夏は、今年は名残惜しげに何度も火照りを残しながら、それでももうすっかり去ってしまった。
そして本当にいつの間にか、ぎんなんが匂っていて、すとんと秋が来た。

なんとなく、2年前の10月を思い出していた。

ソウルでの1人暮らしをはじめて半年あまり、
そして、大学の研究室に間借りした小さな民間団体の「1人事務局」で働き始めて3カ月あまりの頃。

10月はじめの3連休は、自分でびっくりするくらい「することがなかった」。

休みに急に連絡して遊ぶような友達もいなかった。
休みの日を返上するほど忙しい仕事もまったくなかった。
それまで感じたことのなかった類いの、「しがらみのなさ」の晴れ晴れとした自由さとさみしさを噛みしめていた。
むだに天気が良かったことをよく覚えてる。



映画にでも行けばいいし、明洞や弘大の方にショッピングにでも行けばいいし、ふだん全然行かない美術館とかにでも行けばいいのに、その気が起きなかった。

そして何をしたかというと、

何を血迷ったのか、

家の近所の美容皮膚科で、レーザートーニングをした。爆。


なんだったのだろう…あのときのあの心理は。
「こんなに人に会わないという時期はないかもしれない、そんなときこそできることをやっちゃおう」
という勢いでだったのか。とにかく、魔が差したとしか思えない。
そう思い立つと、最寄りの駅の周りにいくらでも「美容皮膚管理」の施設を見つけられるのがこわいところだ。

結果的にどうだったかというと、連休初日に施術して、残り2日間はまるっきり部屋に籠もらねばならない顔になった。(レーザーで焼いた小さいシミの痕が無数に散らばる顔)
その後2カ月くらいかけてケアに励んで多少きれいになったが、いま、どれだけ効果があったかと見返すとあまり自信がない。もしかしたら、そうとうなムダだったかもしれない。でも特に後悔していない。

あの頃、向き合っていたのは自分の顔ばかりだったのだという、馬鹿馬鹿しくも消し去れない日々の証な気がする。

あれから2年。たった2年なのに、ずいぶんと自分の環境は変わった。
鳥がせっせといろいろな物を集めて巣をつくるように、私も自分の居心地のよい場づくりのために本能的に動いていたのかもしれない。私にとって必要な「物」は人とのつながりだった。たとえ、めんどくさかったり嫌な思いをすることが増えても、人との関係を作らずにはいられないタチらしい。
暮らす、というのはそういうことなのかもしれない。がらんとしていた部屋に一つずつ家具が増えるのと同じく。よくもわるくも。


だからこそ、2014年のすっからかんの秋を、ときどき大切に思い出す。
孤独ともいえないささやかな「コドク」を噛みしめていた、まっさらで空が青かった秋の日を。


2016/08/16

8月15日とハンメ(ばあちゃん)。

終戦記念日、いや敗戦日、光復節(解放記念日)…と、
日本と朝鮮半島の間で、毎年なにかしらの厳粛さと緊張感を持たざるを得ない、8.15。

久々に、この時期に東京の実家にいる。

久々に一人で来た実家は特に何も変わってなかったけれど、ずいぶんスペースが余るようになっていた。長いこと6人で住んでいて狭かったのに、いまは両親2人だけが住んでいる家。

この日は朝から雲がどんより重く、湿度が高かった。台風が近いらしい。

11時、車でK市の端にある老人保健施設に両親と向かった。
痴呆の症状が進み施設にいるハンメ(おばあちゃん)の様子を見に。

施設の入り口に着くまで、私は老人ホームも養老院も介護施設もよく区別がついていなかったことに気が付いた。自分の家族のことなのに、新聞記事の2行ほどのこともわかっていない。

数日前、ハンメは脱出を試みて一人でエレベーターに乗ったらしい。受付の看護師さんは「ちょっと目を離したすきに…ごめんなさいね」と苦笑していた。歳に比べ足腰が健康すぎるハンメ、さすがだ。

訪ねてみると、4人部屋のカーテンで仕切られたベッドで、ハンメはきれいに横たわってすやすや眠っていた。四角い顔は思ったよりしっかりしてツヤもよい。ただ胸の上で組んだ両腕は老人のそれで、骨ばかりだった。
腕に軽く触れるとふっと目を覚まし、しばらく私の顔を見つめ、「みす?」と呼んだ。

あ、孫のことはわかってるんだ、よかった。と思った。
「いつ来たの」「まだあっちに住んでるのかい」というので、普段は韓国にいることもちゃんとわかっているらしかった。
よく眠っていたねというと、「片付けしたら疲れちゃった」という。引き出しケースに入っていた衣類はきれいに畳まれカバンの中に移されていた。「家に帰る準備をしてた」という。

お昼なので一緒に部屋を出た。食事スペースには30人ほどのご老人が静かに自分の席に座ってじっと待っていた。自分で動けて、自分で歩けて、入れ歯も1本もないハンメからしたら、なぜ自分がここにいなきゃならないのかそりゃわかんないだろうな、と思った。

あまり長く一緒にいると帰る帰ると言い出すので、母と私は早々に退散することにした。
「良かったわねえ、かわいいお孫さんが来て」と看護師さんがいうので、自分がまるで小さな子どもになったような気がした。そして私が本当に小さかった頃は、ハンメはまだ40代後半だったのだと思いだした。

ハンメが痴呆と気付くちょっと前、だから今から5,6年前のある日、二人で荻窪でご飯を食べたことがある。
そのとき、ハンメは突然終戦前後の話をし始めたのだった。兄を頼りに朝鮮から日本に渡ってきたこと。20歳近く年上の人と結婚しなければならなかったこと。ハルベ(じいちゃん)は結婚してすぐ亡くなり、ヤミ米を売って生活したこと。貧しかった、という言葉は絶対に使わなかった。昔はヤンバン(両班)で金持ちだったとか、日本では周りの誰も食べたことのないバナナが家にはあったとか。
生涯女手一つで家庭を支えたプライドが、ハンメの軸だったのかもしれない。痴呆がおカネへの執着という形で表れ、一緒に暮らした実の娘である私の母や父は苦しい思いをした。

20代からほぼ実家を出てしまった私は、家族に対しては自分が困ったときに頼るばかりで何もしなかったという申し訳なさばかりが残る。
ハンメがとりあえず施設に入れたこと、それで両親が気持ち的には少しはラクになったことに、ただただほっとしている。
それもずいぶん薄情なことなのかもしれない。

2年前くらいに、私が韓国にいる間にハンメも遊びにおいでよ、と言ってみたら、
「行ってもいいけど、そんなに行きたくもない」とあっさり断られた。
故郷に行きたくない?と聞いても「別に…」と沢尻エリカ並の返事だった。
ハンメのなかで韓国とは、故郷とは、どういうものとして位置付けられているのだろう。
祖父母たち1世が故郷に帰りたいだろう、と思うのは、むしろ後世のロマンなのかもしれない。
いや、「別に帰りたくもない」という言葉の奥底にある心理はまったく別の複雑なものなのかもしれない。

***

やっぱり日本も韓国も老人福祉問題が深刻よねえ、などと、一般時事問題のようにしゃべりながら、こぎれいな施設を後にしつつ、
「もう家に帰る」と荷造りをしていたハンメの姿がちらつき、目の奥がしきりに痛くなって、下を向いてスニーカーの靴紐を結んだ。

グレーの空に少し晴れ間が見え、セミの鳴き声が耳に痛く刺さった。

2016/07/11

夏の夕暮れ、ビール、旅。

猛暑注意報が流れるほど暑い週末。

ちょっと前に大雨が来たり、台風の噂もあって、あら今年は梅雨らしい梅雨が来るなあと思ってたけど、また連日猛暑。

私は夏が大好きなので、暑いのはそれほど苦じゃない。
けっこう年を取ってきたのに、相変わらず夏好きなのは、まだ体力があるということでありがたいことと思いたい。

だけどこの7月は、私の好きな典型的な夏のイメージ=青のペンキをぶちまけたような空、まっ白な入道雲、カルピス、みたいな=にはまだ遠く、じとっと重たい暑さだ。からりと晴れた青空が見えないのは、大気汚染のせいかもしれぬ。

夏の一番切ない時間帯は、ほの明るい夕方だと思う。


古びた団地の両マンションに切り取られたすきまに夕暮れを見たら、
なんだか胸苦しくて、無闇に人恋しくなる。

こういうときに、外でビールを飲みたいのですよ。しんみりと。
ほんとに。

と、思っていたら、外に出かけた師匠から珍しくコールが。
「いま家の近くで○○と飲んでるんだけど、迎えにきてほしい状況になった」
と、ナメたことを抜かす。でも、外でビール飲めるかも!という思いで、速攻駆けつける。

団地の目の前の道路を挟んで、飲み屋街が並んでいる。
夏の夜は連日、外がにぎやか。


行って見たらば師匠は夜風に吹かれてウトウトしている。
相手にしてくれていた友人の○○さんと、ビールと焼酎で乾杯しながら、旅行の話などをする。

夜の熱気、がやがやした飲み屋街の騒音、時折とおりぬける風。
そんな中、プラスチックのテーブルでビールを傾けていたら、アジアを旅行した20代の頃を思い出した。

ーー若い頃って、ほんとに怖い物知らずでした。ネットもない時代に、1人でバックパック背負っていろんなとこ行って。怖いこともあったけど、事故も無くいまこうしているのがフシギなくらい。でもやっぱり、旅に行って良かったって思います


そんな私の言葉を、相手はどれくらい理解したかわからないけど。

確かにいま、バックパックで一人旅に出る勇気があるか、自信がない。20年前のあの頃よりも、世界は不穏で不安に思える。それは、私が年を取っていろんな情報が耳に入って、保守的になってきたせいなのか、…それとも、本当に世界が非平和の方向に向かっているからなのか。わからない。前者だと思いたい。

ねむねむの師匠を起こして、帰路につく。徒歩5分の旅。
守るべきものー家族ーができると、保身になる。守るべきものができるというのは、強さだけではなく、弱さにもなり得るのだと思った。


はじけるような熱狂の夏は、私にはもう来ないかもしれない。いや、十数年たって忘れたころにやってくるかもしれない。
わけのわからないことを思いながら、ほろ酔いで家に着く。




2016/04/26

ああ、食い違い。

女と男の傾向のちがい、と安易に分けたくはないが。
どうしても、女が関心を寄せる話題と、男が関心を寄せる話題は、大きく分ければ別の枠組みになるらしい。
もちろん女的なネタの盛り上がりに乗れない・乗らない女性もいるし、逆もまたしかりなので、あくまでも個人の傾向の違いではあるが。

まわりくどいけれど、何のことかといえば、私の関心事と師匠の関心事の違い方のことで。
料理につかうこだわりの食材とか、インテリアの鉢植えとか、自然派の化粧品とか、
そういうものに師匠がひとっつも関心がないのと同じくらいに、
私は、師匠がテレビにかじりつくスポーツ観戦全般にひとっっつも興味がない。
(師匠に限らず、いままでのパートナーは大抵スポーツを観るのが大好きだったが、私はどうやっても興味を持てなかった。)

そのへんはもう、お互いの領域の違いを荒らさないという暗黙の了解のつもりだったが、
人というのはやはり、自分が面白がっているものを側にいる人に伝達せずにいられないらしい。

深夜、師匠がいつものようにスポーツチャンネルを回すと、運悪く(運良く?)錦織vsナダルのテニスのオープン決勝戦をやっていた。
大人しく観ていればいいものを、「ナイッスー!」「ア〜 シッ(=ちくしょう)」「アイゴ〜!」と、ひとり大興奮である。深夜1時すぎ。
さらには「いまのはどこが良かったかというと…」と解説をつけてくる。しばらく相づちを打ってみたが、なんせ興味ないので、
「テニスの面白さがちっともわからない私には身に余る解説です。」
と、丁重に申し上げておいた。

すると、一瞬大人しくなるのだがすぐに「あっほら今の絶妙なサーブが…」と言いだし、「…って言ってもあなたは興味ないんだよね。」としゅんとなるので、ちょっと悪いなと思い、「聞くだけ聞きましょう」と応じることにした。

自分の作業をしつつ30%くらい耳に入れ、フンフン、それで?ほお、フンフン。を繰り返していたのだが、
「ファン・インジョンは体力は劣るが持久力はあるんだよ」
という言葉がなぜか耳に入り、
「ふんふん。で、ファン・インジョンはいつ活躍した選手?」
と何気なく聞いてしまった。

すると、師匠の表情になんともびみょーな気まずい色が浮かんだ。

「いや…なんていうのか…ファンというのはイエローのことだ」と。

ファン(黄)
イン(人)
ジョン(種)。


黄色人種の体力の話だったらしい。


スポーツの話は、5%くらいしか聞いていないことがバレバレ。

おかげで、その後はすっかり大人しくなって観戦していました。



それにしても、「イエローのこと」…って。
分かるように伝えようと、とっさに出てきた言葉らしい。


2016/03/21

最近の日々。

同居人である「師匠」の職場は二勤交代制なので、週ごとに朝出勤、午後出勤が変わる。

ちなみに師匠というのは夫のことである。
師匠とは、はじめて彼の写真を見た妹の感想が「ざこば師匠に似てる。」だったことに由来する。「夫」も「亭主」も「旦那」も「ハズバンド」もどれもしっくりこないので、当面この渾名で登場してもらうことにする。

朝出勤の週は5:40に起床して、朝ご飯を食べて、6:10に送り出す。
これは、完全夜型で早起きがめちゃめちゃ苦手な私にとっては、画期的な生活の変化だ。
送り出したあと、食器を洗い、掃除をし(毎日ではないけど)、洗濯をし(毎日ではないけど)、片付けて一息ついてもまだ8時になっていない!なんていい気分!
今まで自分にもっとも縁遠かった「早起きは三文の徳」を実感。

朝の時間はシゴトがはかどるというのは本当だ。
とはいえ、ひとたびパソコンに向かってしまうと、あれもこれも手を付けはじめてしまい、あっという間に午後になる。
一休みしようかな、と時計を見ると4時過ぎで、ちょうどその辺りに早番勤務を終えた師匠がただいまーと帰ってくる。
師匠は家にいる間中ずうーっとテレビを点けるので、テレビと机が同居している部屋での作業はなかなか進まない。つごう、師匠が朝出勤のときは早い日中、午後出勤のときは2時以降〜夜までが在宅ワークタイムになる。

その合間に家事をする。家事にハマると半日キッチンに立ち続けていることもあるけど。
料理は、いままでのところほぼ完全韓国料理だ。
おかずの8,9割が、赤い。
韓国料理のよいところは、作りおきのおかずでほぼ毎食卓をクリアできること(それも家庭の趣向によるだろうが、うちはメインのおかずは特にいらない、というタイプ)。
何種類かのキムチ、何種類かのナムル、スープを、時々気合いを入れてダーッと作り、
後は食卓に出す→食べる→片付ける の繰り返しだ。慣れると、この上なく楽。




料理も、片付けも掃除も好きなシゴトだ。
時間があるかぎり、こまこまと家の事をするのはまったく苦じゃなく、じつは昔からナチュラル系の生活雑誌を見たり、こんな家にしようと妄想するのが大好きだったりもする(全然そうは見えないとよく言われますが)。

新しい暮らしがはじまってはや3ヶ月。
最初は「定期的なシゴトが決まっていない」ことに、妙に焦ったり落ち込んだりしていたこともあったけれど。
このかんの日々が、人生でいちばんゆとりを持てた生活かもしれない、と思う。
いまは在宅ワークがメインなので、時間を自由に調整できるのが本当にありがたい。

4月からまた、いくつか新しいことが始まる予感。いや、予定。
しかしスケジュール帳はまだ空白をたくさん残しておく。
今年は「暮らす」というのをきちんとやっていけるようにしよう。
と、いまのうちに思っとこう。





2016/02/29

田舎で旧正月を。

だいぶ前の話になってしまったけれど、
2月5日から8日まで、旧正月をはじめて「嫁」として田舎で過ごした話。


韓国でヨメになると盆と正月が大変だ、という話は呪いのようにあちこちから聞かされ続けてきた。
元来「女は家」と表す嫁という言葉が気に入らなかったから、「わたしはケッコンはすれどヨメになんぞならん!」と息巻いていた。
しかし韓国においては、私がどんな主義主張を持っていようが、周りは勝手に大変なヨメ像を押しつけてくる。

幼い頃は、在日のわが親族も正月や祭祀には親戚一同集まって法事を行っていた。居間では男性陣は陣取って飲み食いし、女性陣は朝から台所に立って料理に忙しく、一段落すると男性陣とは別の部屋で食事をとる。そこでは主に、夫や理不尽な習慣をディスる女トークが花咲いた。
「一度でいいから、お正月にチジミじゃなくてお刺身が食べたいわ。」
と嘆いていた叔母さんの言葉を今でも覚えている。
物心ついたころに参加した女ばかりの自由なトーク時間を面白いなと思いつつも、私は大人になったら絶対こんな習慣に染まりたくない、とも思っていた。

ところが、四十路を迎えるいま、「こんな習慣」の本場(?)でミョヌリ(嫁)と呼ばれるものになってしまった。

夫となった人の実家は、半島の南端の地域のど田舎にある。
秋夕(チュソク)のとき初めて訪れたが、本当に、見渡すかぎり田んぼと畑と山、という風景のなかに古い実家がポツンと佇んでいる。

実家の玄関をあけるとまず、年季の入った家の黴臭いような懐かしいにおいがする。
テレビとベッドだけがある居間と、台所と、シャワーがついているトイレ。住居空間はそれだけの簡素な平屋だ。そこに、お義母さんが一人で住んでいる。
義兄さん方はまだ来ておらず、正月直前に来るとのこと。で、早く来すぎた私たち、そしてお義母の3人で2日間を過ごすことになる。

盆正月のなにが大変かって、とにかく料理をつくって食べて片付けてまたつくって…が大騒ぎなのだが、
足腰の悪い義母はもうだいぶ前から、長い時間台所に立っていられなくなっていて、祭壇に供える正月料理はほとんど市販の総菜で済ますという。
なので、食材の買い出しも、料理の仕込みも、大量の食器洗いもなく、
私たちは、到着した日から翌日いっぱいまで、
お義母さんの作ったおかずで食事→テレビ観る→寝る→起きて食事(同じおかず)→テレビ観る→食事→寝る… というサイクルでひたすら時間を送ることとなった。
何もしないというのは落ち着かなくて「何か手伝いましょうか」というと「座っとけ」と言われ、
本当にただ座っているしかないという状況。

わいわいがやがや人が集まり、座るヒマもないほどめまぐるしい正月準備、
…とはほど遠い、果てしなく静かな時間がまったりと流れていく。

もしかしたら、ミョヌリの先輩方から「あまーい!」と言われるかもしれないが、
まあ、こういう実家で私はちょっと胸をなで下ろしている。




2016/01/19

どこに住むか、の問題。

私の住んでいるS洞(洞は区の下の行政区域)は、不思議なかたちをしている。

六角形の空間、その名も「ダイアモンド広場」というただの空間を中心に、
六つの辺に沿ってぐるりと商店街がならび、それをさらに取り囲むように住宅団地が放射状に広がっている。
いかにも人工的な団地だけれど、住んでみて団地まわりの商店街のにぎわい、人出の多さに驚いた。
特に私の住むH団地に隣接している商店街は、「必要なものが、必要以上にある」といった感じだ。
3つのスーパーをはじめ、コンビ二、イトーヨーカ堂くらいの規模の百貨店、食堂、飲み屋、屋台、道ばたで野菜や乾物を売っている露店、ダイソー、洋服屋、アウトドアショップ、靴屋、コスメショップ、貴金属店、病院は総合病院から美容皮膚科まで数件…etc。
これらがほぼ、家から徒歩5分圏内にある(ちなみにスポーツジムでも通ってみようかと調べたら、徒歩圏内に4店舗あった)。

新しい住まいを決めるとき、私はできれば団地だけは避けたい、と思っていた。
同じ形の20〜30階建てのアパート(日本でいうところのマンション)が、同じように並んでいる韓国の団地の風景は、その地元とか町とかの空気にまったく関係なく突然生えた異物のように見える。
どの町にも同じように建っているアパート団地群は、少しも魅力的にうつらなかった。
それなのに。

* * * *

去年の秋、二人で一緒に住もうという話になったものの、引っ越し話は一向に進まず私はちょっとイラついていた。
ソウルを離れ、連れ合いの住むA市に移ることは了承していたけれど、A市のどこに目処をつければよいのか見当がつかない。
ある日しびれを切らせて「いまから下見にいく!」と、連れ合いの住んでいる町に押しかけた。
相手はのほほんと待ち合わせ場所に来て、何も聞かずS洞に私を連れていった。

私が良さそうな不動産屋をネットで調べてピックアップしておいたにも関わらず、お構いなしに手近な不動産屋に入る。
「○○くらいの予算、チョンセ(※前払い一括保証金の家賃制度。「どたばた家探し」参照)で、H団地がいい。」と、わたしゃ聞いてないよ!という条件を連れ合いはしれっと並べ、不動産屋の女主人は「最近チョンセの物件はなかなか無いのよね〜」と言いながら、H団地のうちの2、3件を出してくれた。
そして、そのなかの南向きの部屋を勧められ、
連れ合いは内見もせずに「どう、ここにするか?」と笑顔で尋ねるのだった。
き、決められません!!そんな、一杯飲み屋を選ぶようなノリで!

そういう、「住まいの決め方」に関するギャップに私はへこみ、連れ合いに対して無闇な反抗に出た。
「団地はぜったい嫌なの!」
「なんで?団地は便利だよ。出前頼むときアパートの屋号言うだけで良いんだから。」(そこかよ)
「夜、ひと気がなくて怖いじゃん!」
「24時間警備の人たちがいるよ。最近は一戸建てのほうが危ないんだよ」
「でも15階とか20階とかは人間の住む高さじゃないよ!
 エレベーター止まったらどうすんの!人は土から離れて生きられないのよお!」
地震を体験したこともなく、ラピュタを見たこともない相手には、通じなかった。

* * * *

そんなこんなで、軽くすったもんだしたものの、
もろもろを経て(その顛末は省略)、結局、S洞のH団地に収まってしまった。
住めば都。いや、都から離れた身としてはそうは言えないけど。
とにかく全てが手の届く範囲にあるこの地域での生活は、
手放しがたい「便利さ」を得てしまった。
いまのところ、そう悪くはないけれど、
便利さは、動きとか感覚を鈍らせる。ような気がする。

ともかく、新しい環境で新しくはじめる生活だから、
これからこの地域の魅力を探しだしてみようと思う。
六角形のまわりをぐるぐる歩いて、地元探索に精を出そう。
もうちょっと、あったかくなったら。



2016/01/06

招かざる訪問者。

引っ越して3週間たった今日の夕方の出来事。

買い物から帰ってきて、荷物を置いた直後にドンドンドンと玄関ドアを叩く音。
誰ですか?とドア越しに聞くと、
「○○確認ですよー」とおばちゃんの声がした。

確認ですよって言われても全然イミがわからない。
恐る恐るドアを開けると、まるで町内会会長のようなアジュモニ(おばちゃん)が何やら書類を持って、ドアの隙間から玄関にのしのし入ってきた。
「最近引っ越して来たのよね?ハイここ(と書類を差し)、世帯主の名前…あってる?アナタの名前入ってないけど…ああそう、新婚なのね」
書類の件名には「転入確認書/通帳確認書」と書いてあった…ような気がしたが、これ何ですか?と聞く前に、アジュモニは無遠慮に部屋を眺めまわし、
「あらー、内装やったのねー、キレイにしてるわねえ。ちょっといい(わよね)?」
と、ずかずか入ってくるではないか。
居間をぐるりと見て「あらあ、広く感じるわねえ」「本が好きなのねえ(=本棚しかないわねえ)」と。「あ…まだモノがあんまりないもんで」と、ついこっちがヒクツに応答してしまう。

「あらあら、これなあに?!すてきねえ!」と目を付けられたのは、格子の形に開くブラインドで、「どこで買ったの?いくらだった?」とたたみかけてくる。
さすがにこの辺で(やっと)我に返って「で、ご用件は?」と言いかけたタイミングで、アジュモニは転入確認の書類のサインを求めてきた。

ところが、書類の確認もそこそこに。
「旦那は?まだ帰ってきてないの?遅いわねえ」
「あなたいくつ?あらそんなお年なの?若く見えるわ。…なんで結婚がそんなに遅かったの」
「子どもは?いないのね?まあ早く作らなきゃね」
「旦那の出身地はどこ?あなたは?」
「働いているの?週何日?何時出勤?」
久しぶりに見知らぬ人の厚顔無恥力に圧倒され、腹が立つより呆気にとられ、思わず一問一答してしまう私。

そんでもって。
「明日は何するの?」と幼稚園の友だちのような無邪気な質問をされた後、
「教会には通ってる?」と聞かれて、ようやく再びハッと我に返った。
「いいえ」と答えたら、まるで心外というような表情で「なんで?」と聞かれたので、
「わたし仏教徒ですから」とまじめな顔で答えておいた。
「そう…私もね昔は違ったんだけど、教会でイエス様にお祈りしたら病気が治ったのよ、それ以来イエス様を信じるのよね。で、明日1時間くらい時間あったら教会に…」
「いや、無理っす」
「どうして」
「私にはお釈迦様がいますから。」

また何か言い出しそうなアジュモニをやっと玄関先まで追いやった。
出る間際にアジュモニが残した言葉は、(開けっ放しだった)トイレを見て「あらここも改築したのね…いくらだった?」
「知りません、覚えてません」

玄関を出ながらアジュモニは、
「イエス様を信じなさい〜」
と言い放って、去っていった。

いやあ。
正月+週末は家でダレていた自分に、このアジュモニの登場は
青唐辛子並みの刺激でした。
油断ならぬなあ、と思った新居生活。

というわけで、この機に「引っ越し顛末記」をちょっとずつ思い出しながら書いてみようと思う。

つづく。(つづかないかもしれない)