2016/08/16

8月15日とハンメ(ばあちゃん)。

終戦記念日、いや敗戦日、光復節(解放記念日)…と、
日本と朝鮮半島の間で、毎年なにかしらの厳粛さと緊張感を持たざるを得ない、8.15。

久々に、この時期に東京の実家にいる。

久々に一人で来た実家は特に何も変わってなかったけれど、ずいぶんスペースが余るようになっていた。長いこと6人で住んでいて狭かったのに、いまは両親2人だけが住んでいる家。

この日は朝から雲がどんより重く、湿度が高かった。台風が近いらしい。

11時、車でK市の端にある老人保健施設に両親と向かった。
痴呆の症状が進み施設にいるハンメ(おばあちゃん)の様子を見に。

施設の入り口に着くまで、私は老人ホームも養老院も介護施設もよく区別がついていなかったことに気が付いた。自分の家族のことなのに、新聞記事の2行ほどのこともわかっていない。

数日前、ハンメは脱出を試みて一人でエレベーターに乗ったらしい。受付の看護師さんは「ちょっと目を離したすきに…ごめんなさいね」と苦笑していた。歳に比べ足腰が健康すぎるハンメ、さすがだ。

訪ねてみると、4人部屋のカーテンで仕切られたベッドで、ハンメはきれいに横たわってすやすや眠っていた。四角い顔は思ったよりしっかりしてツヤもよい。ただ胸の上で組んだ両腕は老人のそれで、骨ばかりだった。
腕に軽く触れるとふっと目を覚まし、しばらく私の顔を見つめ、「みす?」と呼んだ。

あ、孫のことはわかってるんだ、よかった。と思った。
「いつ来たの」「まだあっちに住んでるのかい」というので、普段は韓国にいることもちゃんとわかっているらしかった。
よく眠っていたねというと、「片付けしたら疲れちゃった」という。引き出しケースに入っていた衣類はきれいに畳まれカバンの中に移されていた。「家に帰る準備をしてた」という。

お昼なので一緒に部屋を出た。食事スペースには30人ほどのご老人が静かに自分の席に座ってじっと待っていた。自分で動けて、自分で歩けて、入れ歯も1本もないハンメからしたら、なぜ自分がここにいなきゃならないのかそりゃわかんないだろうな、と思った。

あまり長く一緒にいると帰る帰ると言い出すので、母と私は早々に退散することにした。
「良かったわねえ、かわいいお孫さんが来て」と看護師さんがいうので、自分がまるで小さな子どもになったような気がした。そして私が本当に小さかった頃は、ハンメはまだ40代後半だったのだと思いだした。

ハンメが痴呆と気付くちょっと前、だから今から5,6年前のある日、二人で荻窪でご飯を食べたことがある。
そのとき、ハンメは突然終戦前後の話をし始めたのだった。兄を頼りに朝鮮から日本に渡ってきたこと。20歳近く年上の人と結婚しなければならなかったこと。ハルベ(じいちゃん)は結婚してすぐ亡くなり、ヤミ米を売って生活したこと。貧しかった、という言葉は絶対に使わなかった。昔はヤンバン(両班)で金持ちだったとか、日本では周りの誰も食べたことのないバナナが家にはあったとか。
生涯女手一つで家庭を支えたプライドが、ハンメの軸だったのかもしれない。痴呆がおカネへの執着という形で表れ、一緒に暮らした実の娘である私の母や父は苦しい思いをした。

20代からほぼ実家を出てしまった私は、家族に対しては自分が困ったときに頼るばかりで何もしなかったという申し訳なさばかりが残る。
ハンメがとりあえず施設に入れたこと、それで両親が気持ち的には少しはラクになったことに、ただただほっとしている。
それもずいぶん薄情なことなのかもしれない。

2年前くらいに、私が韓国にいる間にハンメも遊びにおいでよ、と言ってみたら、
「行ってもいいけど、そんなに行きたくもない」とあっさり断られた。
故郷に行きたくない?と聞いても「別に…」と沢尻エリカ並の返事だった。
ハンメのなかで韓国とは、故郷とは、どういうものとして位置付けられているのだろう。
祖父母たち1世が故郷に帰りたいだろう、と思うのは、むしろ後世のロマンなのかもしれない。
いや、「別に帰りたくもない」という言葉の奥底にある心理はまったく別の複雑なものなのかもしれない。

***

やっぱり日本も韓国も老人福祉問題が深刻よねえ、などと、一般時事問題のようにしゃべりながら、こぎれいな施設を後にしつつ、
「もう家に帰る」と荷造りをしていたハンメの姿がちらつき、目の奥がしきりに痛くなって、下を向いてスニーカーの靴紐を結んだ。

グレーの空に少し晴れ間が見え、セミの鳴き声が耳に痛く刺さった。