2014/08/26

流行はシースルー。

夏が終わりゆくなあ、と思うと
なんだか「夏の思い出」らしきものを書き留めておかないと、と意味もなく焦る。

それで、思い出でもなんでもないけれど、この夏気になっていたこと。

韓国の、というかソウルの女子のファッションは露出度が高い。
どこと比べてより高いといえばよいのかわからないが…年々露出が高くなるなあ、と思うのは客観的なのか私がおばさん化してるためなのか。
ショートパンツの超ショートっぷりは前からだけど(去年、日本から遊びに来た友だちの一番共通した感想が「パンツが短すぎる」だった。ほんとに。)
今年は、さらに、シースルーのシャツが目立った。

どれくらいシースルーかというと、下着がほぼ見えるくらいスケスケなのである。
最初、街なかでいちゃいちゃ歩くカップルの女子の方が着ていたTシャツが透っけすけでブラ丸見えだったので、ぎょっとして、おいおい彼氏は注意くらいしたれよ。と思った。
ところが、その後、しょっちゅう見かけるんだなあこれが。なるほど流行なのか。その、一歩間違ったら「洗濯しすぎて生地が薄くなっちゃった」風なTシャツが。

いっとき流行っていた「見せブラ」なのか? 一見ふつーのブラジャーだけど…。いいのかそれで。

流行って妙なものだ。タンクトップを着るとき、ブラの肩紐が見えると恥ずかしいからストラップレスにしたり透明なストラップにしたり、と夏のスタイルは案外苦心するのに。
いっそ全体図を見せてしまうのが「流行」なら、恥ずかしくなくなるものか。

ちなみに、透けシャツを着て歩いているのは、比較的胸の大きい女子で(超個人的観測上)。どうしたって得意げなバストが強調されてるんだけど、
「みんな着ているから」の感覚のためなのか、特にじろじろ振り返って見る人もいず。
(私はおもいっきり見ているけどな。)
なんなんだろう。慣れって、いや、思い込みっておそろしい。

韓国と日本の女の子のファッションは近いものがあるのにも関わらず、
おしゃれの感覚がぜんぜん違うなあ、って日々思うので、ついつい目が行ってしまう。
女の子たち、かわいいんだけど…そしておしゃれなんだろうけど…つまり流行なんだろうけど…でも、正直、なにそれ?!!とツッコミたくなるものもある。

流行の透けシャツは、私の好みの感覚でいえば完全にアウトなんだけど、
まあ、つい目が行ってしまう、という時点で、見せるのが目的のおしゃれとしては成功なのか。(?)

あ、ちなみにそろそろシーズンも終わりなので、期待してソウルに来ても透けシャツ女子には出会えないかもしれません。
それから、写真はありません。あしからず。



2014/08/17

8月15日。

8月15日を韓国で過ごすのはぜんぶで3回目だけれども、
今回、ここで暮らしていてある発見があった。

13、14日になると、軽トラックの荷台にたくさんの太極旗を積んで
商店街の軒下に差して回る地域の担当さんを見たのだった!
どうりで。万遍なくどこもかしこも国旗だらけなわけだ。
個人宅もそうなのだろうか? アパートの大家さんは、どこかで配布されたという太極旗を嬉しげに買い物カゴに差して帰ってきた。


8月15日。日本では終戦記念日、敗戦日。
どこか重々しく、悲痛な気持ちで、平和を祈る日だった。
日本に暮らしている間、自分にとっても。

ここ韓国では、「光復節」と呼ぶ。植民地支配からの解放記念日である。
今年改めて、ああ、この日は日本とはまったく違う意味を持つのだな、と感じる。わかってはいたけれど。
解放なのだ。お祭りムード、までは今ではないけれど、晴れ晴れとした、胸をはって迎えて良い日なのだ。まさに祝日なのだ。

私にとって8月15日はいつも複雑な思いがある。
「出自」からすれば紛れもなく解放の日として晴れ晴れと迎えていいはずだ。でも日本で生まれて生きてきて、そんな風にこの日をすっきりと捉えられた試しがない。

初めて韓国でこの日を迎えたのは2005年、釜山でのことだった。
300人の日本人参加者とともに釜山港に降り立ったその日、幾度かの議論の末、韓国側の受け入れ先は光復節の祝典に日本の人々は参加しない、という判断を下した。
300人という数の日本人が祝典に参加するというのは前例がなかった。韓国人の気持ちが高ぶるこの日、これだけ大勢の日本の人々を、そこにいる釜山市民みなが寛容に受け入れられるかどうかはまだ「時期尚早」と判断したという。
2005年の春、小泉首相が靖国神社を参拝した、そういう年だった。日本と朝鮮半島、中国の政治関係に緊張感があった。
(でも、それでも、「現在ほどひどくはなるとは思わなかった」。悲しいかな、いまはそう思う。)

その時も、私は複雑な思いをもてあました。私はどの立場でこの日の意味を捉えているのだろう。私は日本の参加者の引率担当でもあった。釜山の人々の判断はもっともだったし、気持ちは痛いほどわかった。でも私は祝典に参加はしなかった。

あれからもう9年もたっているのか〜。
まさかソウルに住むようになって8月15日をまた迎えるとは思いもしなかったけれど、こう、住んでみて感じるのは、あの時ほどの緊張感というか複雑さは薄まるなということ。
淡々とした気分でいる。ただ、国旗に対する、というか、国旗を掲揚するという行動に対して生理的な拒否感は、どうしてもある。
それについてはまた、別の機会にじっくり考えてみるとします。

そういえば、婆ちゃんは69年前のこの日を、日本でどんな思いで迎えたのだろう。と、ふと思った。







2014/08/10

風邪はお客さま。

前回(健康がいちばん。)に引き続き、

風邪が思いがけず長引いた。

風邪ひき始めの日に、早朝便で日本に行ったり、そのために前夜はチムジルバンに泊まって床で雑魚寝したり、昼間からビール飲んだり、小雨のなか花火を見たりしたから、自業自得なのはよくわかっている。まあそれら全部、精神的にはたいへん癒やしになったのだけど。

喉がつぶれて、かすれかすれの桂銀淑ヴォイス(←分かる人だけ分かっていただければよいです)のまま1週間。
ある日、仕事でお世話になっているJ牧師にどうしたんだと聞かれ、「冷房に当たって風邪を引きました」と言ったところ、
「冷房が風邪の原因ではないでしょう。身体のバランスが崩れていたので、冷房の寒気に身体が負けたんです」
と、諭された。
J牧師いわく、風邪は病気ではない、と。
いわく。韓国語で風邪を「감기(感気)」というが、これは身体が「気」を「感じる」ということ。
「気」はエネルギーのことで、これは分散している方がよい。だから「気分がよい」というのは気がうまく分かれてバランスがよいことを言うし、「気分が悪い」のは気が集中して凝り固まっている状態を言う。
身体が気の変調を「感」じて、「感気(風邪)」が起こる。熱が出たりするのは、汗をかいて老廃物を出すためである。だから、熱を抑えようとしてはいけない。出し切ってしまうこと。
西洋医学は病気を悪と考えて、症状をなくそうとする。そこへ資本主義が結びついて、大量の薬投与や病院治療が一般化したのだ。

…と、西洋医学と資本主義の批判に話がいたるJ牧師。東洋医学に造詣が深い。
へー、と面白く拝聴していた。

「東洋の考えでは、感気はお客さまなのだよ。
 自分の体に感気がやってきたら、丁重に迎えなきゃならん。
 栄養のあるおいしい食べ物を与えて、ゆっくり休んでいただく。
 するとお客は満足してすぐに帰って行かれるよ。
 しかし、忙しいとかなにかを理由に、ろくな食べ物を与えず、休みもせず働いてると、
 お客は怒って、いつまでも居座ってしまう」

なるほどー。
すごくしっくりと来る話だった。

つい「風邪ぐらいで」と思って日常通りに過ごそうとしてしまうし、
市販の風邪薬に頼って、はやく治そうとしてしまう。そのくせ、夜更かししてる。
なにより、「大して働いてもいないのに、体調を崩して休むなんて何だかすみません」という、出所のよくわからない罪悪感が働いてしまう癖がある。

J牧師のお話をありがたく拝受して
この週末はマッサージを堪能し、思うさまだらだらと過ごしているのであります。