2015/01/08

いつまで日本語。

私はことばが好きだ。
読むことも、書くことも好きなほうだ。
伝える・伝えてもらう手段、つまり表現の手段はいろいろあるけれど
ある人は写真で、ある人は音楽で、ある人は踊りで伝えようとするならば、私はことばという手段を自然と選んでいるのだろう。
…たぶん、一番お金がかからずモノが要らないから、そうなったんだと思う。

そして私のことばのベースとなるのは日本語。
日本語で書く、というのは、単なる表記言語としてではなく
日本語的に思ったり、感じたり、考えたりしている、ということだ。
陶芸にたとえるなら、私の場合、形作った器に日本語という釉薬を塗って完成させているのではなく、
日本語の粘土をこねくり回して、なんとか器の形に仕上げている、という感じだ。

韓国語で文章を書くとしたら、
日本語の粘土でつくった器に韓国語の釉薬を塗って仕上げようとしてしまう。
まだ、そういう段階だ。…と言うべきなのかなんなのか。

そんなわけで、
いまだに韓国語で文章を書くのは苦手だ。
(まあ、言い訳なんですけどね)
もっともっと、韓国語をたくさん読んで、書いて、頭をひたひたにすれば、いつか「韓国語的に」思ったり感じたり、するようになるのかも知れない。
場合に応じて、「思考の言語」のチャンネルを切りかえることができれば、ものの見方・考え方はもっと豊かになるかも知れない。
そこに至るには、もちろん努力が必要なのだろうけれど、
川をぴょんと飛び越えて、向こう岸に渡るような、思い切りが必要なような気がする。なんとなく。

それとも、思考の言語というのは基本的には変わらないんだろうか。
私はいつまで日本語ベースなのかなあ。

日本語で感じたことを、日本語で伝えるのだって、だいたい上手くできないことの方が多いけどね。