2013/03/01

クリティカルに。

火曜日の授業、Critical Peace Studiesは、18時半から21時まで。
最初の授業では、食事をとって行ったらねむねむ病に冒されてしまうんじゃないかと心配になり、マグに珈琲を注いで持って行った。
(結果的には、眠くなるヒマなどないエキサイティングな授業だった)

担当のProf.F.Leeは、いろいろな活動団体や機関で活躍中で、自らを元々教授ではなく市民運動出身者だと自己紹介。
「プロフェッサーとかサーとか呼ばないでほしい」とおっしゃるので、ここではフランシス先生と呼ぶことにする。

まず最初に、フランシスは言う。
「ただのPeace Studiesではなく、君たちはあえてCritical Peace Studiesを学ぶ。これはとても重要な概念だ」

正直いって、
わたしは事前にもらったプリントを読んでも、Criticalの意味がずっとわからなかった。
でもここで「せんせー、クリティカルって何ですかー?」と聞くのははばかられる。さすがに。
そこで。
「フランシス、質問があります」
「どうぞ」
「ここではCriticalとはどういう意味合いで言われるのですか?場合によっては、ネガティブな意味に聞こえることもあります」
「OK、いい質問だ。
 誰か、この質問に対する意見は?」

おお!
なんかけっこう、それっぽいではないか。
白熱教室のような展開になりそうじゃないか!
(大学授業から久しく離れているから、こういうのが新鮮で嬉しい)


ここでいうクリティカルとは、
「多角的な視点で」「別の意見を持って」「裏返したり表に返したりして」「深く掘り下げて」考えるということだった。
誰かの意見が必ず正しいわけじゃない。正しい意見が一つとは限らない。
教授の言っていることが正しいとは限らない。
そこに、いつも疑問を持ちながら、ある意味で批判的に、自分の意見を持ち、ちゃんと表現すること。この授業では意識的にその姿勢をもって進めよう、という。

やっぱりなーと思ったのが、たった8人のクラスでもすでに、得手不得手の傾向が見えること。
タイ、ベトナム、日本、韓国のざっくり東アジアな生徒たちは、目上の人に意見したり、自分の意見を積極的に言うのがちょっと苦手で、おとなしくなってしまう。
インドネシア、パキスタン、モンゴルの生徒たちがクラスを若干リード気味。

ちょっと授業から離れて、日常生活でのクリティカルな考え方、発言、態度、について考えてみる。
”それはちょっと違うんじゃないの”とか”私はこう思うのに”と思うことは大小さまざまある。政治に対して、社会問題に対してから、タオルの使いかたひとつに至るまで。
そこにひとつひとつクリティカルな意見を発していく習わしは、日本ではほとんどない。
重んずるは協調。相対するは同調すること。日本で友達同士、よく使うことばは「私もそう思う〜」「いいよいいよ、気にしないで」だ。他に違わず、わたしも。

めんどくさくなってしまうのだ。
ひとつひとつの事柄に自分の意見を「発して」いくのはもちろんのこと、自分はどう思うかをいちいち「考える」ことだけだって、相当エネルギーを使うのだ。
だから受け流すことに慣れていく。耳に入るニュースに、賛成でも反対でもなくただ聞き入れることに。タオルの使い方に違和感を感じても、わざわざ取り立てず受け入れることに。
今までの自分を取り巻いていたのはそういうぬるめの空気。まあ良くも悪くもだけど。

授業では受け流すことを良しとされない。授業だけのことだと思ってやり過ごしたら、なかなか発想もことばも出てこない。
だから、日常生活でもクリティカルシンキングを鍛えなければならぬ。
そう思って意識してみると、ふだん受け流してることが多すぎると気づいてイヤんなっちゃう。わからなくても曖昧に笑ってしまうクセ。ちょっと違うと思っても「そうね」と言ってしまうクセ。

ま、ぼちぼち向き合っていきましょう