2015/12/31

1年を振り返ってみる。

結構昔から自分の恒例行事なので、大晦日に1年を振り返ってみる。だれでもやってることだけど。

1月、ビッグイシュー日本の知人をはじめとする研究会の韓国訪問のコーディネート&同行通訳。やりがいを感じて、今後こういうことをやりたいなあと漠然と思う。そして今後につながる出会いのあった月。

2月、日韓の大学の教授陣のフォーラムのため福岡、長崎へ。そういえばソウル一人暮らし1周年。

3月、誕生日。韓国の歳ではずっと40だと思ってたのに、考えてみれば39歳になったのであった。へんなの。上海での「東アジア地球市民村」イベントに参加→雲南省の大理スタディーツアー。大理すてき!

4月、日韓ミュージカル「A Common Beat」の話が舞い込んでくる。会議の通訳を引き受けたつもりが、3回目以降の会議では「共同代表」になっていた…。

5月、ミュージカルの体験会(参加者募集)スタート。初めての合宿。日本からコアプラスやキタシバのメンバーが来て、またソウルツアーの同行をさせてもらった。

6月、東アジアリーダーシッププログラム(日韓若手宗教者のワークショップ)の日本ツアーで、埼玉県小川町フィールドワーク。あ、そうそう、やっと国民健康保険に加入。

7月、コモンビート練習。日韓台そしてアジア各地の学生達のワークショップ in うちの大学。これが最後のシゴトとなる。

8月、日韓クルーズ「Peace & Green Boat」参加、楽しかった。帰ってくるなりミュージカルの最後の日韓合同合宿。

9月、ミュージカル A Common Beat ソウル公演!!秋夕(チュソク=旧盆)のお休みに初めて彼の田舎に行く。

10月、A Common Beat 福岡公演!感無量。いっぱい泣いた。その後、彼が来日、親に挨拶。

11月、世界人権宣言大阪連絡会議と多民族共生人権教育センターの来韓、同行通訳。その後、去年ソウルでの「国際社会経済フォーラム」で会った川崎市の職員さんがたが来韓し、飲む(飲んでばっか)。

12月、日本で「東アジア地球市民村」のスタディツアーで東京、長野、山梨、綾部。その後石巻でのコモンビートミュージカル鑑賞。韓国に帰ってきて、12月9日二人で住む家契約、11日に引っ越し、新生活はじまり。遠くから友だちが会いに来てくれる。我が家族が日本から訪韓、ほぼ初めて4日間家族と旅行をした。そして、28日に、法的に結婚。
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2015年の1月に書いていた日記。
「この1年しかないって思おう。
 この1年で、すべてやる。
 シゴトを軌道に乗せるのも
 韓国生活も
 私が私としてできることをみつけるのも
 一人で自由にいられるのも。
 やろうと思ったことを、必ずやろう。
 がむしゃらになれるのも、この1年しかない」

とかいって。
できなかったことも、いっぱいあるけれど。^^;;

いつもの事ながら、今後のことをもやもや模索している私であるけれど、きっと一生もやもやするのが私ということで、今年は気分よく締めることにしよう。

2016年、平和で喜びがあふれる年になりますように…


 今年の最後に、心につきささった、石巻の風景。




2015/11/25

そのひとことを飲み込んで。

ずっと思っていたことを、ちょっと書いてみる。

銀行の窓口で、タクシーで、何かを問い合わせたり申し込んだりする電話口で、
最初の一言を発するときの緊張が、いまでも苦手だ。

タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げると、最初のほんの少しの会話で気づく人はこう言う。
「ハングッサラム アニシネヨ(お客さん、韓国人じゃないね)」
そのとき私に元気があれば、韓国人だけど日本出身の在日同胞です、と言うし、元気じゃなかったり面倒であれば日本から来ました、とだけ言う。
日本から来たという言葉でなぜか大抵、運転手さんは「やっぱり当たった」とばかりに満足げに、日本に関する自分の関心事を話したりする。
私は、『ああやっぱりバレた』と、小さくがっかりする。
この「バレた」と「がっかり」という感情は、どこからくるものか。何故、そんな風に感じてしまうのか。

韓国生活、トータルで2年7ヶ月たった。思い返せば、来たばかりの頃はいまよりもずっと、韓国語を話すのがぎこちなかった。
銀行で初めて口座を作るとき、住民登録証でも外国人登録証でもない「居所証明」を持って要件を伝える私の前で、係員は隣りの係員に「外国人なんだけど、担当者呼んで」と言った。

そのとき、私はキレた。
自分でも止めようのない感情が膨れあがって、押さえられなかった。

以来、外国人と扱われること、日本人と思われることに対して過剰に反応してしまうようになった。携帯電話の加入のとき、郵便局の窓口で、店で物を買うとき、何気ない会話で。
友人に「あなたがそういう反応を示すとき、顔がとてもこわばってる」と諭され、ハッとしたこともある。無意識に肩に力が入っていたのだ。
2年くらい経ち、さすがにもうそんなに反応しないな、と思っていた。が、忘れた頃にこの『アナタ外国人/日本人ダヨネ爆弾』は炸裂する。そして少しずつ心を傷つけられる。
「いい年して今さらもう傷つくな!」と一方の自分が突っ込むときもあるけれど、しばらく心の奥でいじいじしているのだ。

なんでなんだろう。と素朴に考え直してみる。私は「韓国人」として認められたいのか?

「イルボンサラム アニラニカヨ! ハングッサラムイエヨ!」
(日本人じゃないってば!韓国人なんですよ!)

何度も口にしたこの言葉は、実際叫んだりはしないけど、いつも絶叫のように心を行き来する。
それから、

「日本にいても外国人、韓国にいても外国人……」

この哀愁に満ちた節も、何かにつけて心寒く流れる。

でも。
そもそも韓国人なのか、私は。東京で生まれたときは朝鮮籍で、韓国国籍は18歳から始まった。
韓国に住むことになる、というのはある意味ハプニング—思い掛けなかったこと—ではある。
すらすらと韓国語を話せるようになって、住民登録も得て、韓国の習慣も気質も身につけて、すっかり「韓国人」となれたらそれが段階クリアなのか?迷いがなくなるのか?

○○人とはなにか、というのは自分にとってずっと考えるテーマではあるけれど、
「わたし韓国人です」と主張するひとことを、いったん飲み込んでみる。

もう、わたし韓国人ですって言うの、やめます。とりあえず。

韓国人とは、なんなのか。そして、在日コリアンとは何かということを見出す必要がある。自分自身で。

これは個人的な問題ではないし、同時に個人の問題でもある。
こんな悩みは20年30年前から変わっていないし、いまも韓国に来る若い在日コリアンの友人たちが同じように傷つくのを見て、心底、胸が痛む。
もう、こんな悩みが後世代にも続かないよう解決すべきだという思いもあるけれど、
反面、在日コリアンであるがために考え、傷つき、悩むことを大切だとも思いたい。
国家や、国民や、○○人という枠組みにはまらない自分自身の存在を悩むことは、
しんどいけれど、尊いことだと思うからだ。






2015/09/12

スパルタ・マッサージ。

ここのところ、体があまりにカチコチで、首から肩にかけてが痛すぎたので
人に勧められた地元のマッサージ屋に行ってみました。

知人曰く、そこは「マッサージをされてる間中、隣りのマッサージ台からうめき声が聞こえた」くらいで、「強めが好きな人におすすめ」とのこと。
なんか怖いなあ…と躊躇したけれど、「すごく効いたし、コスパも良い!」とプッシュされて、予約。

雑居ビルの3階で、見るからに怪しい。オススメされなかったら自分からは決して入らなかったであろう外観。
なにせ、営業時間が「深夜2時まで」となっていたので、一瞬別のマッサージかと思った。
行ってみると、階段の踊り場に立てかけてあった看板には、「2時」の横に棒が1本手書きされ修正されていた。さすがに2時まではつらいよねマッサージ師さんも。

ピンクの体操着みたいなのに着替えて、台の上にうつぶせになる。
はじめての担当さんは、愛想よりも貫禄をウリにしているような感じのアジュモニ(おばちゃん)で。
最初にそっと背中に手を当てられたとき、「お、これはなかなかヤル人だな」と直感した。…というのは誇張だけど、何か小手先のマッサージではないものを感じた。

黙々と揉まれていき、最初はうとうとするくらいの余裕があったのだけど…。

私は左肩がウィークポイントで、ずっと昔にケガした部分が不完治なのか、急に曲げると肩筋がつってしまう癖がある。なので、マッサージをしてもらうときいつも左腕を触られると体が緊張してしまう。
おばちゃんの手が左肩に来たとき「力を抜きなさい」と言われ、かくかくしかじかと肩の容態を話したのだが…
「いいから、力を抜いて私にまかせなさい」と。

頼もしいんだけど、痛いんだよ。それに怖いんだよ!何度も「力抜け」と言われ「もうあまりいじらなくていいです」と訴えたところ、
「じゃあどうするの?ほっとくの?治さなくていいの?!」
…と、喝を入れられてしまった。

それから何分、いや何十分経過したのか…。ひたすら痛みと恐怖に耐え、力を抜くことに集中し(矛盾)、必死で呼吸をし…もはや「ヒッ ヒッ フー」の境地でしたよ。

知人よ、今ならわかる。マッサージ中延々とうめいていた人の気持ちが。

最後の方でやっと手を緩めてくれたおばちゃんに、あなた日本人?と聞かれる。
ああ、やっぱり出たこの質問(言葉のイントネーションでバレるんだよね、って、バレるっておかしな発想だけど。)…と思いつつ、まあ日本人じゃないけど日本から来た在日同胞なのだよ、と答えておく。
おばちゃん、ふーんと納得顔で、
「日本人のお客さんもたまに来るけどね、普通このマッサージに耐えられないよ。泣く人もいるよ」と。
ちょっと、もうちょっと優しくしようよ、おばちゃん!

大げさだけど大げさじゃなく、苦行の45分を耐えしのいだのだが、
起きてみてあらびっくり、上半身が明らかに軽い!
左肩がちゃんと回る!
この効果を持って、おばちゃんマッサージ師はカリスママッサージャーに昇格。私のなかで。

そんな地元のマッサージ屋さん、全身たっぷり1時間で40000ウォン(4千円)。
けっこう、通ってます。






2015/08/17

フリーな生活のはじまり。



6月、7月は大きめの行事があったのと、気持ちのヨユウがなかったのとで、あらあらっ?!という間に過ぎてしまった。
息もつけないほど忙しかったのか、というとそういうワケでもなく、手帳を見返してみれば突然バトミントンを習っていたり(1回で終了)、2年ぶりのカラオケに行ったりしているので、それなりに時間的余裕はあったようだ。
ただ、7月いっぱいでこれまで勤務していた仕事が任期終了するというリミットを前に、
気持ちばかり焦って、気づくといくつかの案件を同時に抱えていてあっぷあっぷしていた、らしい。

6月末〜7月、日本での東アジアリーダーシッププログラム、
7月末、日韓台+在韓アジア留学生たちのサマースクール(inうちの大学)、
8月、日韓クルーズ・ピース&グリーンボート、
帰ってすぐ、日韓ミュージカル A Common Beatの合宿。

と、駆け抜けてみて、本日やっと一息。
さて、晴れてフリーター生活のはじまりだ。

このかん、いろいろ考えてみたり、
周りの方々にたくさんご心配いただいたりしたけれど、
これからちょっとの期間は、「落ちつく時間」にしようと思う。

私はどんな仕事についていても、「忙しそうですね」「大変ね」というねぎらいの言葉をいただくことが多い。
ねぎらっていただくのは大変ありがたいんだけど、実はそんなに忙しくも大変でもないんです。
でも、よほど慌ただしく、落ちつきなく見えるのだろうなあ、と反省する。

だから、ちょっと落ちついて。
これまでやり散らかしたシゴトをちゃんと振り返ってみたり、
新聞やニュースをじっくり見たり、
たまってる本を読んだり、映画を見たり。
そんな当たり前のことが、ぜんぜん出来ていなかったのは、時間がある/ないの問題ではなく、
気持ちが前を向いていなかったからかも、と思う。

9月19日(ソウル)、10月3日(福岡)でのA Common Beat公演までは、そのスタッフ作業に集中しつつ、じっくり丁寧に生きてみよう。
そしたら、まあそのうち何かが手に残るでしょう。

ところで。
この蒸し暑い真夏、ほぼ半月部屋を空けていると、どうなるでしょうか…。
日常生活のはじまりは、まずキッチンのシンク下の大掃除で半日を費やすこととなりました。






2015/05/22

焼き肉屋でアルバイト。

日本からのご一行様を連れていった、焼き肉屋さんでの出来事。

下見がてら直接予約をしに行ったときに、店長のおばちゃんが私を見て、「あなたガイドさん?」と聞いた。
いいえ、臨時の通訳みたいなことを頼まれたんです、と答えておく。
すると「どこに住んでるの?」と畳みかけるので、なんでだろう?と思いつつも最寄りの駅を伝えておいた。(これが独身ぽいイケメンだったら電話番号もつけとくんだけど…聞かれなくても…)
おばちゃんは、ふーん…と何か考えているようすだった。

そして、ご一行様がたらふく焼き肉を食べ終えて、会計をお願いするころ、
ずっと何か言いたげだったおばちゃんは、最後にもじもじしながら、
「あの〜、週に1、2回この店に来て、日本語を教えてくれないかしら」
と言うではないか。

鍾閣(ジョンガク)の飲食店街にあるこの店はオープンしてまだ数年らしいのだけど、
予想以上に日本からのお客さんが多いのだそうだ。
中国からのお客さんに対しては、店に中国出身の店員さんが多いので、言葉の問題はないらしい。でも日本語ができる人がいない。
何か、簡単な会話でもできたら…と思って、日本語の語学教室に行ってみたのだが、
「必要な言葉を、なかなか教えてもらえないのよね〜。注文を聞く言葉とか、豚肉にしますか、牛肉にしますか、とか。」と。
…そりゃ、教室では教わらないでしょうよ。

そんなわけで、ひょんなことから焼き肉屋で「日本語を教える」アルバイト、をすることになった。
要求が要求なだけに、超初級からかなりカスタマイズした授業を行うことにした。
なので、
「おはようございます」「ありがとうございます」
などの基礎挨拶の次には

「これは、ぶたの、さんまいにくです。」「ロースいちにんまえです。」

などという言葉から教えるという…。

店長さんは人の良さそうな素朴なおばちゃんで、覚えた日本語を使ってみたいが、いつも勇気がなくてお客さんに言えないのだそうだ。

でも、日本のお客さんの方がちょっとは韓国語ができる人が多くて、
せっかく来てくれたのに、迎える側の自分が全然日本語がわからないので申し訳ない、と言う。

なんか、ちょっと感激してしまった。
もちろん明洞などの観光客商戦場では、店員がモノを売るために限定的な日本語・中国語をたたき込んでいるけれど、
おばちゃんの動機は、ちょっとでも「わかりたい」し、自分で「伝えたい」という気持ちが素朴にあるような感じがして。
言語を学ぶ動機には、「伝えたい」「わかりたい」があればそれで充分。
そんな思いのお手伝いができるなら、と、教えるのも楽しくなってくる。

というわけで、
牛肉の部位の言葉を日韓両語で調べながら、ニッチなテキストを作り。
香ばしい匂いの漂う日本語教室やってます。




2015/05/14

ぶらりと島へ。

昔から5月が好きだけど、ソウルでの5月は殊更空が青く見えて、良い。

長い冬が終わって、4月。桜はいつの間にか咲きあっという間に散り、なんだか飾り物みたいであまり心に響かなかったな、と思った。4月は、悲しみが漂っていた季節でもある。

気がつけば、ジャケットを手に持って袖まくりして歩く季節になっていた。ソウルの人は暑さに敏感というか、さっさとTシャツ姿で歩いている。
空が青く、空気に密度を感じる。そうして見回してみると、新緑のなんと力強いことか。
バスから眺める街路樹が、うんと枝葉をのばして、風に揺れているのを見るだけで心が躍る。なにか、黙って日々を過ごしていてはもったいないようでどきどきする。

それで週末、ふいに思い立って、
地下鉄とバスを乗り継いで2時間半、西海の北にある島に行ってみた。
なんの計画もなく行ったので、着いてから適当にぶらぶらする。





なんとなく、標識に沿って山の方へと歩いてみたら、
思ったより傾斜のきつい山道で、はあはあ言いながら登りきると、古い城郭の跡地にたどり着いた。



登ってみたら拍子抜けするくらい小さい山だったけど、遠くに海が見え、陸地が見える。
後で聞いたところによると、それは朝鮮(北朝鮮)の地だった。


ここは韓国(南朝鮮)側からいえば、最北端にある島。朝鮮(北)から言えば南の島。互いがとても近い。
ソウルからでも、車で2時間ほど走ればDMZ(非武装地帯)にたどり着く。
ここは朝鮮半島であって、私はその南側にいるのだ。ということを改めて思う。
それが「フツー」であればよいのに。
こんなに、緑は一斉にあおあおとしているのに。山も海も、そもそも誰のものでもないのに。

そんなことを、考えたり考えなかったりしながら、ぶらり一人散策を満喫した。

夜は友人の経営するゲストハウスで、まったり。
都市を離れて、緑のなかへ。そんなことも割と気軽にできるのが、ソウルという市のサイズだと思う。

(韓国へ来て、ちょっと時間があるなら江華島の旅もよいです。ゲストハウス(asacasac guesthouse)をオススメしときます。ちょい宣伝。)




2015/04/10

冷たい4月。

桜が咲いたが、花冷えの一週間だった。

霞むような青空がようやく見え、厚手のコートを置いて出かけられるようになる頃、
週末はどこへ遊びに行こうか、ワクワクする気持ちに、いつもブレーキがかかる。

もうすぐ4月16日。

4月に入り、「セウォル号」に関する話題が再び巷をとりまいている。
ニュースで特集が組まれる。追悼の催しが開かれる。
そして私はそこに反応している自分に何か罪悪感のようなものを感じている。

去年の4月、この事件はものすごくショックだった。ものすごい無力感に襲われた。
何かとっかかりを探して、追悼場にも行った。事件の真相究明と特別法をもとめる集会やデモにも行った。キャンドルを灯し、遺族の叫びに涙した。
でも秋を過ぎるころから、私の生活から「セウォル号」に関わる情報はどんどん薄れていった。カバンにつけていた黄色いリボンのバッジは、いつの間にか取れてしまっていたがそのままにしていた。

この一年、セウォル号の事件は何一つ終わっていないし変わっていない。
なぜ309名もの犠牲者を救助することができなかったのか、その責任はどこにあるのか、
そこを明らかにする特別調査委員会と、調査をもとにした特別法を作ってくれ。
たったこれだけが、遺族をはじめとする人々が、−−何日もの座り込みや生命の危機に至るほどの断食を行って−−訴えつづけていたこと。
大統領に直訴するため青瓦台に向かった行進は何度も押さえつけられた。
遺族の行動に対して「左翼、アカ」「補償金引き上げのため」「特定地域の利益のため」などというバッシングが出回った。
紆余曲折の後つくられた特別調査委員会は、事故1周期を迎える今になっても、何一つしごとをしていない。

セウォル号の沈没は、現在の韓国社会のひずみの象徴。
そんな言葉は使われすぎてボロボロになるほど使われた。
今日の新聞にこんな寄稿があった。
「私たちはセウォル号の惨事を通じて、この社会が、私たちの生活が、どれほど脆弱な土台の上にあり、どれほど無能で無責任で信頼できない政府の手に任されているのかを実感することとなった。この惨事で総体的な破局の兆しを経験した私たちの生とは一体何なのか、国家とは何か、問うようになった。」(京郷新聞.2015.04.10 小説家ヒョン・ギヨン寄稿)
国家は人を守らない。
それは、韓国社会に限ったことではないと、私はその考えを強くする。

いまも冷たい海の底ある船体と一緒に、韓国社会は沈没し続けている。
そんな中で、私はそれなりに良くも悪くもない一年をのうのうと生きてきた。
4月だからと今更沈鬱な表情で悼むことに、だから引け目を感じる。でも、だからといって流してしまうよりは思い出す方がいい。何度でも何年たっても。

3.11大地震後の福島原発事故と、セウォル号事故。この二つはまったく同じではないけれど、ひと連なりの惨事として自分のなかに刻まれている。
だからセウォル号を思うとき、福島を考える。
桜が蕾をつけそして散り始めるまでの季節を、痛みとともに迎える。







2015/04/07

職場から見る風景。

午後、
一息つこうと、廊下のつきあたりにある小さいベランダに出た。
昨日久しぶりの大雨が降って空気は澄んでいたが、雨雲がまったりと広がって、グレーな風景。
職場である大学の、すぐ裏の風景だ。


すぐ手前に、古い昔風の家があり(小さい中庭を囲んでぐるりと居住スペースのある韓屋タイプ)、
はるか向こうに、北漢山の堂々とした山脈が見える。
そして、その間を遮る、アパートの工事現場。

ちなみに韓国では「アパート」とは最低5階建て以上の居住建築のことで、大抵は十数階以上の、日本でいうところの「マンション」を呼ぶ。
わたしは「日本では2階建ての木造アパートに住んでいて…」と慎ましく言ったところ、「それをアパートとは言わない」と笑われた。

話は戻って。
この辺は古い住宅地だけれども、隙間すきまに新しいアパートがどんどん出来て、モザイクのように新旧の住宅がごちゃごちゃ混ざり合っている。
よく見ると、新しいアパートは大抵、色違いのレンガ風外装の似たようなデザインなので、同じ建設業者なのだろうかと思う。

毎日毎日、工事のためにギュイーン…と歯を削るような不快な音が響いている。
その不快さのせいで、工事の風景は私にはみにくいもののように映っていた。
ぼーっと眺めていたら、真ん中の茶色い建物のあいだに、人影が見えた。
よーく目をこらしてみると、組んだ足場の上で、普段着のような格好の男性が、外壁に茶色いレンガ風タイルを一枚一枚貼っていた。

(写真をとった瞬間は、人影はちょうど奥の方に入ってしまった)

なんか、ちいさなショック。
あんな大きな音を響かせて、ばかでかい穴ほったりコンクリートを流し込んだりしてたけど、
壁のタイル一枚一枚は、職人さんが手で貼っているのか。

当たり前っちゃ当たり前の話だけど。
どんなに大きなものも、人の手がつくっているんだなあ。
と、小学生の観察日記並の感想。

古い町並みを壊して、「開発」のもとに効率的で均一で大型な建物を作る”大きな手”には、
顔がないなと思う。
現場で、タイルを貼っているあの人はどんな家に住んでいるのだろうか。などと考えてみた。

韓国では最近、家賃の急騰と分譲アパート開発+ローン金利引き下げ政策で、
住居困難者が急増するだろうというグレーなニュースが流れています。



2015/03/31

三度目の春。

やっと暖かくなってきた。

ソウルではいつから「冬」だったかと思い返せば、
去年11月半ばくらいに初めて気温がマイナスになったと記憶している(11月の全国統一受験日は毎年必ず気温がぐっと下がって、「受験寒波」という言葉があるくらい)。
ということは、4ヶ月半くらい冬だった、ということになる。じっさい長い冬だった。

ほころんだ梅や木蓮の白、ケナリ(レンギョウ)の黄色が目に飛び込んでくると、
おお、久しぶり!待っていたよ!という気分になる。
2年前、留学のためにソウルに来たばかりの頃、寮の部屋から見える裏山は茶色くくすんでいた。
山の木々に花が咲き始めたころ、クラスメートのインドネシアの友人が、
韓国の木には花が咲かないと思ってた! 
と、喜んでいたことを、何となく思い出した。
花が咲かないわけないだろう〜と笑ったけど、南アジアの人がそう思うのも無理ないくらい、韓国の冬は冷たく無愛想だった。

韓国で三度目の春。
「さんどめのはる〜」って何かの歌の歌詞にあったよなあと考えたが思い出せない。

3月は締めの季節、4月は始まりの季節。
って、日本ではそういうイメージがしっかり刷り込まれていたけれど、
韓国では、学校が始まるのは3月からで、大学などではオリエンテーションが2月末から始まっていたりするので、「4月始まり」というのが全くしっくり来ない。
職場が大学なので、もう既に通常授業がはじまって一月以上たっているのを見ている私としては、いまFacebookで日本の卒業式のようすを見て奇妙な時差を感じたりしている。

しかし長い間住んでいた地での季節と慣習の感覚は、なかなか抜けないようで、
やっぱり、3月になにか一区切りをつけ、4月から新たに始めようという気分になる。

さて。
なにを新たに始めようか。

とりあえず今年のささやかな目標は「山に登る」ということで、山の麓に住んでいるソウル人らしく、初心者ハイキングコースから初めてみようかなーと思う。そんな春。

(写真はソウルじゃないけれど。^^;;)





2015/03/07

「韓国の年齢でいえば」。

韓国では年齢を数え年で表すので、慣れるまで非常にややこしかった。
生まれた時が、1歳。そして年齢が増えるのは誕生日ではなく新しい年に変わったとき。
なので、12月生まれだと、うまれた翌月には2歳なわけだ。(だからか、1~2歳までは年ではなく月齢で言うことのほうが多いかも)

年齢を聞いたときに自分より2歳上だと認識した人が、じつは同い年だった。なんてこともよくある。面倒なので、年齢を聞かれたら生まれた年で言うようにしている。
もしくは、「韓国の年齢で言えば(한국 나이로 말하면)...」と前置きして、数え年で言う。

まあ、1歳や2歳どうでもいいことかもしれませんが…どうでもよくないのが韓国社会で。
初対面でも、年齢をがんがん聞かれる。なんなら、名前の次には歳を聞かれる。
なぜなら、年上か年下かで呼び方(オンニ・ヌナ(姉さん)、オッパ・ヒョン(兄さん)をつけるかどうか)や、敬語を使うか否かが変わるから。
日本だと「失礼ですか…」と恐る恐る歳を聞いたりするけど、こちらではむしろ礼儀のために歳を聞くのかもしれない。良いか悪いかは別として。

新年を迎えると一律で1歳年をとる、というのは、やだなあと思っていたけれど、
案外、「誕生日が来たらプラス1歳」という考え方のほうが、狭小かもしれない。
なぜなら、誕生日の日にちというものも、曖昧なものだから。

先日、韓国の友人に誕生日を聞いたら、
「今年は1月21日…くらい。」という。
なんなんだその曖昧さは!と笑っていたら、友人いわく「旧暦で覚えているから、毎年誕生日はカレンダーを見ないとわからない」と。
そうなの?!びっくり!(ちなみに、現在30~40代以下の世代でほとんどは誕生日は新暦だそうだけど。友人は40代前半)
そういえば、昔、在日スーダン人の友だちに誕生日を聞いたら「しらない。覚えてない」とあっさり言っていた。自分の誕生日を知らないなんて!と驚愕したけれど、彼にとっては「それが何か?」という感覚だったみたい。(それで、友人たちとで勝手に出会った日を誕生日に決めて、誕生日パーティーをした覚えがある)
大学院でバングラデシュ人の級友は、登録上は12月31日が誕生日だったけれど、「本当は4月に生まれたんだ」というので、4月に誕生日を祝ってあげた。

そう思うと、(陽暦の)誕生日にきっちり年をとる、なんてことはない。
年の重ね方は人それぞれだ。私たちは曖昧に成長して老いていく。何歳、という数は、じつは任意なのだ。

と、言いつつも。
いくつになっても誕生日を楽しみにしている私である。

去年くらいから自分で「だいたい40歳」と称してきたので、すっかり私は四十路。と思ってしまっていたけれど。そういえば昨日まで38歳だったのか!(どこへ行ってたんだ、この2歳は…)
本日をもって満39。「韓国の年齢で」ちゃんと四十路でございます。
いまだに青臭く悩み惑い続けている今日この頃。
「不惑」の域にはほど遠し。




2015/02/28

引っ越し一周年。

うかうかしていたら、2月がするっと過ぎてしまった。
(いっつもこんな入りだな、最近…)

そういえば今日は、引っ越し一周年なのであった。
去年2月、ソウルに着いて、3日で探して決めたフルオプションワンルームの部屋。
 (当時のことを日記に書いていた)
 

ちっちゃいけど、冷蔵庫・洗濯機・エアコンつきだったし、なにより新築で小綺麗で収納がけっこうあるところが気に入った。今でもまあ不自由ない。…ひとりならば。

ここへ来たちょうど一年前は、
とにかく論文を終わらせるまでの一時宿のような気持ちもあったし、
論文を終えた後に控えていたシゴトのことは、まあ始まってみればなんしかなる、としか考えられていなかった。

引っ越し当日の荷物は、自分で運べる大きさの段ボール5個とスーツケースだけだった。

もともと物をあまり持たないタチだけど、来る前に思い切っていろいろ処分したんだった。
身軽だった。すっからかんで、気楽で、寂しかった。

いま、部屋を見回すと、それなりに物が増えたなあと思うのと、
一年たってもまだこんなにスカスカ?と思うのと、同時にある。
装飾(あそび)の少ない、簡単な部屋。
それはそのまま、私のソウル生活のスタンスに似ていると思う。
浅く腰をかけたまま、いつでも立てるタイミングを伺っているような。

いつもぐずぐず迷いを抱えたまま、もうちょっとここで住んでみるのだろうな。

まあ、そもそも契約あと一年残ってるしなあ。





2015/01/27

石の上にも20年。

駅近くの交差点の角で、いつも座って何かを売っているおばあちゃんがいる。

春も夏も秋も、同じ場所に座って、なにかせっせと手作業しながら売っている。
にんにくを剥いていたり、栗を剥いていたりする。

彼女は私がよく利用するスーパーのすぐ目の前に陣取っているので、あ、おばあちゃんがいる、と気づくのはいつも買い物を済ませて出てきた後だ。

夏はこんな風に、大変ラフな感じで作業および販売をしている。まるで自宅の台所のすみのように。



真冬、日中もマイナス気温になるこの辺りは、アスファルトの路上は凍てつく寒さだ。
そんな中、彼女は冬仕様でやっぱり同じ場所に陣取っている。

ある日、ん?ドラえもん?ってくらいまんまるになって座っている彼女に気づいた。




今までずっと、気づいてもスルーしてきたので、いつも通り交差点を渡りかけて、
なぜかこの日は、思い立ってUターンした。
その日は12月23日で、私は明日東京の実家に帰るぞという日で。
なんとなく、その、大きな理由はないけれど、何か声をかけたくなったのだ。

その日彼女が売っていたのは、剥いた栗と、ピーナッツと、もやしだった。

栗を下さい、と声をかけた。実家へのお土産に、栗ご飯にでもして食べてもらおうと思って。
ちなみに、私は栗は好きじゃない。

おばあちゃんは(たぶん無愛想だろうという私の予想を裏切って)にこにこして「アイゴ、カムサヘヨ〜(まあありがとう)」と栗を一袋差し出した。5000ウォン(約500円)だった。

「寒くないですか?」と聞くと、
「ケンチャナヨ〜(大丈夫だよ)」とにこやかにいう。そして、
「わたしゃここで20年座ってるよ!」と胸を張った。

20年!
その時間の幅というものを考えてみた。

私がちょうど大学に入って、サボったり悩んだり恋したりして、社会とか世界とかいうものに出て、また青臭く悩んだり闘ったり出会ったり別れたりしてた、そのころから、
彼女はほぼ毎日、ここに座っていたのかな。
どんなソウルの風景を、どんなソウルの変化を見てきたのだろうか。

その一つひとつ、でなくとも、彼女の記憶に残っているものだけでいいから、紡ぎ出せば一つの物語が現れるだろうな。
彼女の見てきたものが、そのまま映像になるなら、そんなロードムービーを見てみたいと思った。

20年座っている彼女に、何かうまい言葉が思い浮かばず、どうも、といって剥き栗の袋を持って帰った。

栗を入れたビニール袋の内側に水滴が浮かんでいたので、ザルにあけて水気を飛ばした。君たちは腐らずに日本に行かねばならないからね、と栗に言い聞かせながら。



部屋にはもらったポインセチアがあって、ああ明日はクリスマスイブなんだな、と思った。

この栗がその後、どのように誰の胃袋に収まったか、そういえば私はしらない。


2015/01/08

いつまで日本語。

私はことばが好きだ。
読むことも、書くことも好きなほうだ。
伝える・伝えてもらう手段、つまり表現の手段はいろいろあるけれど
ある人は写真で、ある人は音楽で、ある人は踊りで伝えようとするならば、私はことばという手段を自然と選んでいるのだろう。
…たぶん、一番お金がかからずモノが要らないから、そうなったんだと思う。

そして私のことばのベースとなるのは日本語。
日本語で書く、というのは、単なる表記言語としてではなく
日本語的に思ったり、感じたり、考えたりしている、ということだ。
陶芸にたとえるなら、私の場合、形作った器に日本語という釉薬を塗って完成させているのではなく、
日本語の粘土をこねくり回して、なんとか器の形に仕上げている、という感じだ。

韓国語で文章を書くとしたら、
日本語の粘土でつくった器に韓国語の釉薬を塗って仕上げようとしてしまう。
まだ、そういう段階だ。…と言うべきなのかなんなのか。

そんなわけで、
いまだに韓国語で文章を書くのは苦手だ。
(まあ、言い訳なんですけどね)
もっともっと、韓国語をたくさん読んで、書いて、頭をひたひたにすれば、いつか「韓国語的に」思ったり感じたり、するようになるのかも知れない。
場合に応じて、「思考の言語」のチャンネルを切りかえることができれば、ものの見方・考え方はもっと豊かになるかも知れない。
そこに至るには、もちろん努力が必要なのだろうけれど、
川をぴょんと飛び越えて、向こう岸に渡るような、思い切りが必要なような気がする。なんとなく。

それとも、思考の言語というのは基本的には変わらないんだろうか。
私はいつまで日本語ベースなのかなあ。

日本語で感じたことを、日本語で伝えるのだって、だいたい上手くできないことの方が多いけどね。






2015/01/05

「帰る」。

クリスマスの頃の東京は、手袋をはめなくても手がかじかむことがなかった。
ソウルと東京はずいぶんと気温差があると思った。
その気温差のせいか、いつもよりも少し遠くに感じた。距離的にも。

年末から年始にかけて、里帰りで東京。
里帰りで東京ってなんだかおかしくないかい。なんとなく。
でもやっぱりどうやったって私のふるさとは東京。
見慣れた都市の光を見てどこかほっとしつつ、
トウキョウはなんでもあってなんにもない、といつものことを考えた。

10日間を実家で過ごした。
そういえば実家で大晦日から正月を迎えるのは4年ぶり。
出戻り娘のような気分だ。嫁に出たことはないけど。

「この正月休みは特に予定は入れてない」と口癖のように言いつつも、
気づけば毎日なんだかんだと出歩いていた。
時間はたっぷりあった。なのに何故かいつも、何かを早く済ませなきゃ、という気分に追われた。
がっつり集中してやるべきことを数日で処理し、残りの時間をのんびり過ごす、という能力が決定的に欠けている。わたしには。
本気でのんびりするためには、全力疾走した時間が必要なのだきっと。

いつも年末年始は、ものごとを畳んで片付け、堂々と休み、そして新しく始める、ということができるので大好きなひとときだったのに、
今回はどうもぱっと切りかえができない。
のっぺりとした時間がまとわりついていて、考えることはバラバラに、それぞれカラカラ空回りし、
1年を振りかえることも、これからの1年を思い描くことも、おっくうになってしまった。

いっそ今年の始まりは1月5日からということにしましょう。と勝手に決めた。

そんな気分を抱えたまんま、ソウルへ戻る。
東京を離れるときはいつもちょっとだけさみしいような気分になる。
いまだに。

いつか、自然と「帰る」場所は、どこかに、変わっていくのだろうか。

飛行機に乗り込み、離陸するとすぐに睡魔がやってくる。
一瞬すうっと吸い込まれるように眠って、目を覚ますと、
窓の外で背の高いあいつが、しれっと姿を現していた。



このさんかく坊主が、日本という国の精神的象徴であろうとなかろうと 関係なく、
ただ神々しいばかりに美しかった。
こんな光景を見せつけられてしまっては、
私の頭でこねくりまわしている「場所」のようなものは、みじめにちっぽけな考えだと思わざるを得なかった。

あと2時間後、仁川空港に着いたところから、ちゃんと始めなければ。ちゃんと。

と、思いながら、とろとろもう少しだけまどろむ。