2014/03/21

ストレンジャー。

去年からここに暮らしてみて、日々韓国のまちや人や生活を、何となくロードムービーでも見るように眺めていることがある。
いや、ロードムービーを撮るように眺めているという方が近いかもしれない。韓国に住んでいる自分という登場人物も含めて。

いま国籍とか国民とか市民権をテーマに論文を書いているので、どうしたって在日コリアンというものを日々ねちねちと考えざるを得ないのだけど、
小難しいことはちょっと置いとくとして、
ただ単純に「違うなあ」と感じる小さい出来事を、わたしはむしろ大事に拾っていこうとしている。トーキョーに生まれ育った朝鮮人である自分が、ソウルで生活しながら、日常レベルで感じる「違い」。
ここに「同じ」を見つけていくのも良いことなのかもしれないけれど、「違い」がみつかる感覚のほうが個人的には面白いと思っている。

外国人じゃないけど
ストレンジャーだから。

そのことについて、傷ついたり神経質になるのではなく、そのまま等身大でどう捉えようか、というのを自分なりにつらつらと考えている。

もちろん「違い」があることでもどかしいことも悔しい思いをすることもまだあるけれど、違いは違いであって「差」ではないから、縮めていこうとは思わない。
(社会的なとか政治的な次元ではまた問題が違うけど、ここではあくまで自分個人的な感覚のはなし。)
生活になじんでいってもっと韓国的になろうとも思わないし、違いを手放さずに日本性を際立たせようとも思っていない。
ただ、この「違うなあ」って感覚は、慣れとともに消えていく、というか鈍くなるものもあるだろうから、今のうちに些細なことでちょっとびっくりしたり、感心したり、呆れたりしたことをしっかり拾っておくのは、大切な気がする。

で、違うものの正体をなるべくくっきりさせておくために、「韓国」とか「日本」とかいう国のくくりで主語を言わないようにしている。
まあ、ときどき面倒になってつい「韓国ってのはさー…」とまとめてしまうけど。(つまり、韓国が、とか、日本が、という言い方をするのは面倒臭がりの発想なのだ)

ソウルのまちの風景に溶けて暮らしながら、日々「似て非なり」とか「近いけど微妙」とか「シュールに違う」とかの感覚を、自分の中に見出している。
そう意識することで、自分の立ち位置を確認しているようにも思う。